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メッセージ - 2コリント人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:託された和解のつとめ(2コリント5:16-21):右クリックで保存
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「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい者が生じた。」(17節)

私たちはキリストにあって、生まれながらの自分とは全く違う、全く新しい人間となります。
血筋も、能力も、誰かからの支配も、外見も関係無く、ただ神によって、新しくされるのです。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1章12-13)

新しく変えられるのは、血筋や肉体的性質に留まらず、遺伝的な病気や、家庭内の虐待や歪んだ育て方によって染み付いてしまった、呪われた生き方からも解放されます。
そのようにキリストによって新しく造り変えられたという証は、キリスト者達から沢山聞くことができます。
キリストは、生きておられるのです。

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(16節)

この世は、血筋や能力、どこに属しているかなど、目に見えるものさしで人を判断しますし、自分の事も判断します。
しかし、キリストにあって新しく生まれた以上、そのような肉的な標準で自分を計る必要はありません。
キリストを信じた者にとって重要なのは、「私が何者か」ではなく「私の内におられるお方は何者か」だからです。
「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(1ヨハネ4:4)

キリストは神と私達と間を、和解させてくださいました。
今、イエス様は肉体をもってこの世におりません。だから和解のつとめは、肉体を持ってこの世にいる私たちに、課されているのです。(18節)

「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(20節)
私たちがキリストの使者である以上、まず、キリストというお方の人となりを、そして神の意図している事を、正確に知り、伝える必要があります。
そのためにはキリストを知る知識の霊がさらに与えられるよう、祈り求めるべきです。

「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17-19)

イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:キリストの愛迫る故(2コリント5:11-15):右クリックで保存
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イエス様は、ご自身の命を差し出すほどに私たちを愛してくださり、その愛は、どこまでも私達を追い、迫ってきます。
もし私たちが罪に向かうとするなら、キリストはうめくように迫り、立ち返る事を願っておられますが、主は決して、私達の自由意志を侵害する事はありません。

「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめいの体を住みかとしていたときに応じて、報いを受けねばならないからです。」(2コリント5章10節)
人は皆、一度死ぬことと死後裁きにあう事が定められますが、キリストは人が一人として滅びる事無く、永遠のいのちを得る事を望んでおられます。
パウロは、そのキリストの愛に駆り立てられ、時には、狂っているかのように見られるほどに、キリストをのべ伝えました。

「一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(15節)
これは、全ての人達が知るべき事柄です。
主が私達のために死んでくださった以上、私たちは生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

主がどれほど愛してくださったかを、更に知る事が出来、そして、行動の動機全てがキリストの愛に突き動かされて為すものでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:新しい体を着せられる(2コリント5:1-10):右クリックで保存
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私達が生きているこの肉体は、使っていればやがて壊れてしまう幕屋(テント)のようなものですが、後に神様から頂く体はこのテントよりも遥かに優れた豪邸のようなものです。
旅路において確かにテントは必要ですが、何日もテント生活をしていると疲れてしまうように、この地上での人生という旅路は、疲れを覚えるものです。
「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(4節)

地上を生きる肉体には罪があり、諸々の必要があり、その体を存続させるために、そして、死から逃れるために、我々は額に汗して働き、労苦しなくてはなりません。
しかし、神様から与えられる新しい住まいには、罪は無く、死もありません。
罪ある滅びるべきものは、罪なき滅びないものを着、死ぬべきものは不死を着、こうして死は命に飲み込まれるのです。

私達がこの死ぬべき体から解放されて、新しい住まいに住めるのは、イエス・キリストが私たちを買い戻して下さった故です。
私達の体は日々衰えますが、キリストにあって朽ちない体を着せられる時、死は勝利に飲み込まれたという御言葉が実現します。(1コリント15:53-57)

「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(5節)
御国の体を受け継ぐための保証(手付金)が御霊です。
保証とは手付金とも訳せ、永遠の御国は私達に保証されており、聖霊が私達に与えられているのです。

私達はイエス様を信じて救われたからと言って、好き放題してよいというのではありません。
なぜなら人は、一度死ぬ事と、死後裁かれる事が、定められております。
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(10節)
そういうわけで私達は、この地上において、主に喜ばれる事をするのです。
天の御国のための積立貯金は、今しかできません。
この体は既に主のものとなった以上、生きるにしても死ぬにしてもキリストのためになすべきです。

ただ、天の御国をもって、何より愛するイエス様に喜ばれ、その愛の動機によって、この地上での日々を歩んでいく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:見えるものと見えないもの(2コリント4:13-18):右クリックで保存

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(16節)
外なる人は私達の肉体であり、日々衰えていくもの、永続しないもの、その組成は土にすぎません。
内なる人とは、イエス・キリストにあって息吹かれた私達の霊であり、それは朝ごとに新しく、キリストを感知し、キリストを表現し、キリストにあって莫大な力を秘めています。

『「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。』(13節)
この箇所は詩編116編10節からの引用ですが、その詩編の作者も主を信頼し、主の御前で誠実に歩もうとしました。
それでも、困難があると「私は大いに悩んだ。」と告白してしまいましたが、すぐに「すべての人は自分も含めて偽りを言う者だ」と否定し、それから主はどういうお方かを告白し、そして、感謝と賛美をしました。

私達の肉体や、内側にあるものを見ても、絶望しかありません。
ただ私達の希望は、内なるお方・キリストであり、このお方にあって私達は日々新たに造り変えられていきます。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18節)
見えるもの、すなわち私達の肉体や精神、また私たちが頼りにしがちな富や人などは一時的です。
しかし、見えないもの、すなわち、キリストにあって息吹かれた霊である内なる人は、いつまでも続きます。

どうか皆さんの内に息吹かれた霊にあって、私達と共におられるお方が、どれほどすばらしいかを口で告白し、じっくり味わい、感謝する皆さんでありますように。
イエス・キリストの御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:途方もない宝を秘めた私達(2コリント4:7-2:12):右クリックで保存
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私達は土の器にすぎませんが、キリスト者は内側に、途方もない宝を入れています。(2コリント4:7)
その宝とは、キリストです。

泥で団子を作る「泥団子」は、実は奥が深く、団子をうまく磨けば磨くほどツヤが出て、反射するまでになり、宝玉のようにもなります。
しかし材料が泥である事には変わりありませんので、落とせば粉々になるし、水分が無くなれば、ひび割れします。

私達という土の器も、泥団子のように自分磨きをするのですが、所詮は土のちりに過ぎない事が、いずれ明らかになります。
自分磨きもいくらかは有益ですが、私達という土の器よりも、むしろ器の中に入っている宝のほうが、はるかに勝っています。
だから私達は、土に過ぎなくとも、計り知れない宝をお入れしている「器」であると、わきまえる事が大切です。

キリスト者になれば、苦しみや困難などが無くなる、と思ったら、大間違いです。
むしろ、それらの中にあっても、私達という土の器にキリストをお入れしている状態であるならば、どんな困難にも、どんな不足にも、決して行き詰ったり倒されたりする事はありません。(8-10節)

パウロも肉体に何かしらの病があり、それを「わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使い」と表現しました。(12:7)
しかし、キリストの力は、人の弱さの中でこそ十分に発揮されます。
それ故パウロは、キリストの力が宿るように、むしろ、自分の弱さを大いに喜び、誇りましょう、と言いました。(第二コリント12:9)

私達の全ての助けの源を、土の器に過ぎない自分に置かず、内におられる方・キリストに委ねる時、キリストの圧倒的な復活の力が働きます。

その時、自分の力を発揮できず、死に定められているようにも見えますが、その弱さの中でキリストの圧倒的な力が働いて、キリストの力が、誰の目にも明らかになるのです。
その時、艱難も苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、どのような困難の中にあっても、私達を愛して下さる方によって、圧倒的な勝利者となる事ができるのです。(ローマ書8:35)
そして、世のいかなる被造物も、死も、命も、主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離すことはできません。

この内側におられる宝なるキリストから、無限の力をいただきつつ、日々を歩むみなさんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:神の言葉を曲げる事無く(2コリント4:1-6):右クリックで保存
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「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(2コリント4:5)
イエスキリストにあって、いのちの務めを為す際に、最も大切な事は、より多くの人を惹き付ける事ではなく、神の言葉を曲げる事無く正しく伝える、という事です。

多くの人が受け入れやすいよう、意図的に「地獄は無い」とか「イエス以外でも救いはある」などと言うのは、もっての外ですが、自分が善い事をしていると思いつつ、無意識的に、神の言葉を曲げる人もあります。
例えば「弱い人を憐れみたい」という思いが強いために、キリストを主としてもいないのに「あなたは高価で尊い」「天国がある」などと、聖書の特典的な良い面ばかりを語って、キリストの十字架を語らないのは、神のことを思わず、人間のことを思う者であり、そのようにしたい誘惑は、サタンの巧妙な罠です。
「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ16:23)

御言葉を正しく伝えるのは私達の責任ですが、福音を受け入れるか受け入れないかは、聞いた人の責任になります。
しかし4節を見ると、不信者の目をくらまし、キリストの栄光を輝かせない霊的存在があるようです。

そのような霊的勢力に対しては、霊的な武器をもって対抗しなくてはなりません。
「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)
「真理の帯」がぐらぐらしていては、霊的武具はすぐに解けてしまいますし、「救いの兜」がしっかりしていなかったら、すぐに頭(思い)を攻撃されてしまいます。
唯一の攻撃の武器は「御言葉の剣」であり、エバはこれを正しく用いずやられてしまいました(創世記3章)が、キリストは3度、御言葉の剣で正しく対処し、勝利しました。(マタイ4:1-11)
私達の内の、真理や救いの確信、義とされている事、救いの平和、信仰、そして御言葉が、しっかりしている事こそ大切である事は、エペソ6章10-17節をお読みいただければ理解出来ます。

『「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。』(2コリント4:6)
私たちが神の栄光を知る知識を輝かせるには、「光あれ」と言われた神によって照らし出されなくてはならず、キリストを知る知識のかおりをを漂わせるには、キリストに全く服従し、キリストについていかなくてはなりません。(2コリント2:14-17)
パウロのように、キリストに全面降伏しているのであれば、私達もキリストの香りを放つ者となり、栄光の光を輝かせる者となります。

御言葉を混ぜ物する事無く正しく伝え、キリストの光を放ち、キリストの香りをさらに放つ皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:主の栄光を輝かせる(2コリント3:12-18):右クリックで保存
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パウロや私達の新約の務めは、モーセの務めよりはるかに優れております。
モーセの務めは、罪に定め死に至らせる務めですが、新約の務めは、命に至らせる務めであり、永遠に残るからです。
律法はただ人に罪がある事を示すもので、キリストへと導く養育係です。
キリストが十字架で死んでくださった時、神殿の幕屋は裂け、神と人を隔てる隔たりは破壊され、旧約の律法も預言者も、キリストにあって成就しました。

その傍ら、多くのユダヤ人達は、メシアがまだ来ていないかのように律法を朗読しており、今でもそうしている人も沢山います。
「「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。」(14節)

人が主イエスに向くなら、神と人とを隔てている覆いは取り除かれます。
罪ある人は、神殿の至聖所、すなわち、絶対的聖なる領域には、決して入る事はできず、もし、その聖と俗とを分ける隔てが存在しなければ、人は「聖」に打たれて死ぬしかありませんでした。
しかし、キリストが私達の罪の身代わりとなって罪を取り除いてくださり、私達がキリストを着る事によって、聖であられるお方の御前に立てるようになりました。
イエス様は神と人との間の架け橋となって下さり、このお方をおいて他に永遠なる神の御前に行ける道は、ありません。

主の栄光を輝かせる鍵は、モーセのように、神と向き合って交わる事です。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(第二コリント3章18節)
私達は信仰の創始者であり完成者なるキリストを見つめ、主の栄光を反射し、世に対して、主の光を放つ者となるのです。

ステパノは、御座に座しておられる方を見つめ、殺意と騒乱に満ちた状況でも、栄光の輝きを顔から発し、キリストに似た者として、栄光と尊厳に満ちた死を遂げました。
御霊に待たされるなら、どのような状況でも主に在る平安と自由があり、栄光があります。
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)
決まりごとを守る事に、あまり自由は感じませんが、御霊に歩むなら、どんな事にも自由があり、開放感に満たされるものです。
大切な事は、文字の決まりごとを守る事ではなく、御霊によって歩む事です。

いつでもイエス様に目を向け、主の栄光を世に輝き渡らせる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:栄光の務め(2コリント3:7-11):右クリックで保存
韓国語通訳有

新しい契約は、私たちの心の板に記されたため(エレミヤ31:33)、その律法はいつも私達の内にあり、いつでも私達を導きます。
そしてそれは、いつまでも残るものであり、古い契約は太陽の前の灯火のように色褪せたものとなります。

もちろん旧約の律法にも栄光はありましたが、それは石に刻まれた「死の務め」であり(7節)、「罪に定める務め」(9節)とあります。

モーセが山で律法を授与した時、彼の顔は栄光の光を帯び、民は栄光に輝いた彼の顔を見れませんでした。
また、神がシナイ山で圧倒的な臨在で民の前に顕現された時(出19章)、民は震え上がり、神が直接自分達に語らないようにしてくださいとモーセにお願いしました。
このように旧い契約は、神様と民の間に大きな隔たりがあり、互いの距離は、遠いものでした。
いつも遠くから、細かい決まりごとばかり伝えてくる夫の言う事を、喜んで聞き入れられないように、民は、遠く隔たれて、細かい決まりごとばかり要求してくる神の定めた掟を、守れませんでした。

律法の行いによって義と認められる人は、一人もおらず(ガラテヤ2:16)、あれをせよ・これをせよという律法の行いの下にいる者は、呪いの元にあります。(ガラテヤ3:9-14)
善悪の木の実に基づいて生きている人、すなわち、善か悪かという路線のもとにいる人には、心に平安がありません。
そういわけで、旧約の律法は「死の務め」であり、「罪に定める勤め」なのです。

イエス様はその呪いから解放し、いのちの木であるイエス様に繋がらせて生かして下さるために、十字架上で呪われた者となり、私達の身代わりとなって死に、そして、よみがえってくださいました。
「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)
もはや信じた私達は、呪いの木にかけられる者ではなく、命の木につながった者とされました。

その救いは、どのようにして私達に適応されるのでしょうか。
それは、信仰によってです。
律法は罪に定める務めですが、イエス・キリストを信じる信仰は、義とされる道です。
そしてイエス・キリストへと導く勤めは、永遠に残る栄光の務めです。

もはや、古い石の板に書かれたものによるのではなく、聖霊によって心の板に書き記された掟に従って歩むように、キリストにあって造り変えられました。
栄光ある務め人として、相応しく歩むみなさんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:自身に刻まれたことば(2コリント3:1-6):右クリックで保存
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パウロは「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。」(1節)と書いていますが、果たして、コリントの人達にとってパウロは信用ならず、誰かの推薦が必要なのでしょうか。
そもそもコリントの教会は、パウロの献身的な奉仕のお陰で建てられたようなものなのに、パウロがそんな事まで書かなくてはならないという事は、コリントの人達のパウロに対する信用は、パウロを誹謗中傷する者達のお陰で、そこまで地に落ちていたようです。

しかしパウロは言います。
「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」(2節)
パウロが使徒として、コリントの人達に福音を伝えた。
その実りが、コリントの人達自身であり、だからパウロは「あなた方こそ私の推薦状である」と言っているのです。

人は、文章による確証を求めがちでありながら、一体誰のお陰で今の恵まれた状態に入ったのかを、忘れがちです。
人は書面を求めるかもしれませんが、主が求められるものは、人そのものです。
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(3節)

主の新しい契約も、書面によるものではなく、霊によるものです。
新しい契約の律法は、御霊の筆によって私達の心の板に記され、主を知る事について、もはや誰かからの説明を必要としなくなります。(エレミヤ31:33-34)

救いは、文字上のものではなく、人そのものが変わり変革されます。
キリストを信じる事により、いのちの御霊の法則が適用され、主は何を喜ばれ、何を嫌われるかが、自分自身に刻み付けられ、それに従って歩む事が出来るのです。

主も、私達を、その手のひらに刻みつけて下さいました。

イザヤ書49章を見ると、主は、私達を本当に愛し、憐れまれるお方である事が分かります。
「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。
見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(16節)

主の手と足に受けた傷は、いのちを差し出すまでに私達を愛して下さったしるしであり、主も、ご自身の傷跡を見る度に、私達を思い起こして下さり、そしてその傷跡は、永遠に残るのです。
私達は、主がそこまで愛して下さった事を忘れないため、心の板に主の律法を刻み付けるのです。

主が御手に刻んでくださった事を覚えつつ、主の言葉を心に刻み、主にあって歩みつづける皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:キリストの香りを放つ者(2コリント2:12-2:17):右クリックで保存
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「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」(2コリント2:14-15)

当時、ローマ帝国では勝利を重ねてローマに凱旋した時、香りの高い香を焚きながら、打ち負かした国々の捕虜を引き連れ、凱旋行進していました。
パウロは自分を、キリストの勝利の行進に連ならされた者、すなわち、キリストに打ち負かされた者、キリストの捕虜、キリストの奴隷として、自分を表しております。
事実彼は、エフェソでも、トロアスでも、そしてコリントでも、いつでも弱く惨めで敗北した者であるかのようでしたが、弱いからこそ、逆に勝利者なるキリストの強さが引き立ち、至る所で、キリストの香りを放っていたのです。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」(2コリント4:8-12)

私達は自分を降ろし「キリストの香り」を放つ者でなくてはなりません。
自分達の香りや教会の香り、牧師の香りばかり放ってキリストの香りが無いのは、本末転倒です。
キリストに降伏し捕虜となった者として、キリストに縛られて行くのであれば、キリストの栄光の香りを至る所で放つ事ができます。

このキリストの香りが放たれる所では、人は、真っ二つに分かれます。
すなわち、救われる人々と、滅びる人々です。
「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。」(15,16節)

伝道しに行った時、救われる人が起これば、成功したと思い、邪魔されたり迫害されたりして、誰も福音に繋がらなかったら、失敗した、と思うかもしれません。
ところが、福音に「反対する」という反応があったのであれば、私達はキリストの香りをそこに放った、という事において、大成功を収めたのです。

ステファノは大勢の前で偉大な説教をしたにもかかわらず、悔い改めた人は一人もおらず、逆に反対され、石打にされ、殺害されました。
彼は強烈にキリストの香りを放ち、その香りによってエルサレム教会は散らされ、香りは至る所に届けられ、そしてその香りは、後の伝道者パウロに強烈なインパクトを与えました。
ステパノを殺害した者達は、ステパノを眠りにつかせましたが、ステパノから放たれた香りは結局、反対者全員に死に至らせる香りとなってしまったわけです。

キリストの香りを豊かに放つには、神の言葉に混ぜ物をしてはなりません。
「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(17節)

私達はいたるところにおいても、キリストの香を放つ者であるべきです。
どうか日々自分を降ろし、御言葉に混ぜ物をする事無く、キリストに捕虜とされた者として、純粋なキリストの香りを放つ皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

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