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メッセージ - 1コリント人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:溢れるほど愛するから、叱る(1コリント4:14-21):右クリックで保存
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私達はできれば手厳しい事は言われたくないし、また、できれば人に厳しい事は、言いたくないものである。
パウロがコリント人達を手厳しく戒めたのは、コリントの人達を霊的な子として愛しており、良くなってほしかったからである。
「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。」(2コリント2:3)

私達も親から叱責を受けた経験があるが、親がそうするのは、子が、幸せになるような、たしなみを身に着けて欲しいからだ。
パウロも好き好んであのような手紙を書いたわけではなく、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書いたのであり、その動機は溢れる愛から出たものだった。
「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした。」(2コリ2:4)
厳しい事を言ってくれる人は少ないものだが、その人の動機が愛から出て、苦しみとうめきを持ちつつしてくれるなら、その人の言葉は宝である。

「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」(16節)

パウロは、コリントの人達にとって、これ以上無いと言うくらいの優れたお手本だったが、私達は、誰にも彼にも従って良いという訳ではない。
その人に従って良いかどうかの判断基準は、まず、その人がキリスト・イエスに忠実に習う者であるかどうかだ。
また、その人の行いの実が良いか悪いかも、判断基準になる。
もしその人の生活がだらしくなく、どんどん貧しく病んでいるような人であれば、例えどんなに優れた事を言っているようであっても、その人はスルーしたほうが良い。
しかしもし、その人が霊性においても人望においても物質的においても優れた実を結び続けているのなら、そのような人をお手本とするのは、間違い無い。

パウロは実に父のような愛をもって真摯に、そして御言葉に基づき的確にアドバイスした。
私達もそのように成長したいものであるし、また、霊的な父母に教え諭された時は、謙虚な心で聞き従いたいものである。

教会の交わりにおいて、主にあってますます教え、戒め、愛し合う皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:あなたは競技者?それとも観客?(1コリント4:6-13):右クリックで保存
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パウロは諸々の苦難、幾多の迫害や、鞭打ち、石打などを経て、やっとコリントに至り、福音を伝え、そして彼らは、いのちを得た。
しかし彼らは、パウロの言葉は哲学よりも愚かに聞こえるなどと、あたかも自らが誰よりも偉い王様のように、あるいは全てに満ち足りているかのような立場でいた。

確かに、キリストを信じる者は、王のような支配者となる事は書かれてある。
しかし、それはキリストにならう者である事が、条件だ。

キリストは、まず低くなられ、十字架の死に至るまで従順だったからこそ、神によって引き上げられ、栄光が与えられた。
そのキリストに習い、自らを主の御前に低くなり、従順になり、その忍耐と従順を学ぶ事によって、はじめて引き上げられる。
キリスト者は確かに豊かになるし、王のようになれるが、「キリストに習い、まずへりくだる」という所を抜きにして、豊かになったり、王のようになったり、などというのは、あり得ない。

「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。」(9節)
当時のコロシアムでは、様々な競技や戦い、公開処刑などが行われ、多くの観客が娯楽として見入っていた。
パウロは、キリストに従う者たちは、あたかもコロッシアムで見世物にされているような者達で、しかも、世の人達だけでなく、御使いたちにも見世物とされ、競技場の中で戦っているようなものだと言っている。

競技場の中にいる者と、観客席にいる者とでは、立場が随分違う。
観客席の側にいる人は安全であり、娯楽のためにそこにいて、あれこれと評論したりするが、中にいる人はいのちの危険があり、苦しみ頑張り、実際に体を張って血と汗を流すが、後には賞と栄冠をいただける。
パウロは9節で、コリント人達は観客席からパウロたちが頑張るのを見物して楽しむ側のようだと皮肉を込めている。
キリスト者とは、観客席にいてポップコーンを頬張りながら、血と汗を流す競技者を眺めて、批評したり楽しんだりする人種ではない。
観客席にいる者は、賞も栄冠も、決してもらえない。
むしろ私達は競技場の中で戦い、キリストの栄冠を勝ち取る者として、日々、いのちの務めに励む者達である。

パウロはコリントにおいて、労苦して働きながら復員を伝えた。それは、自らの手で働いて、模範を示すためだったが、残念ながらそれは伝わらず、彼らはそんなパウロを見物していた。
「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。」(13節)

「しもべ」という言葉の原意は「ちりの中をくぐる」という意味だったと最近学んだし、奇しくも、一昨日の主日メッセージも、口を塵につけよという題だった。
今私達に特に示されているのは、キリストの僕たり者は、塵の中を通れ、という事かもしれない。
確かにキリストの働き人は、塵の中をくぐる訓練が待っているかもしれない。
しかし、キリストが低められた後に高く上げられたように、私達も後には、決して朽ちる事の無い義の栄冠を勝ち取るために、しているのである。

塵の中をくぐるというのは、嫌な事、屈辱に移るかもしれないが、しかし、私達の主イエス様は、そのような所をくぐって行かれたのだ!
私達ももし、塵の中をもしくぐっているなら、キリストの足跡をそのまま歩んでいるという、甘く栄誉ある経験をしているのだ。

どうか、キリストに習い、キリストの歩んだ足跡をそのまま歩む事によって、主のくびきの甘さと安息を得る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:忠実な管理者であれ(1コリント4:1-5):右クリックで保存
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4章では、コリント人たちが高慢になっている事を指摘している。
神様を差し置いて、自分が善悪判断したり、罪定めしたりする、というのは、高慢である。
私達はキリストのしもべであり、支配する側ではなく、仕える側にあるのだ。

また、なんと私達は、神の奥義を管理している、というのである。(1節)
「そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」」(マタイ13:52)
倉庫番は、倉庫から新しいものや古いものを、その時に応じ、取り出す事が求められている。
神の国の奥義の管理者が、神の倉庫から取り出すものは、御言葉であって、自分自身の何かを取り出すものではない。

「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。」(3節)
もし私達が、ある会社の倉庫番であるなら、誰か他人が倉庫の中身にケチをつけたとしても、痛くも痒くもないはず。
それは自分のものではなく会社のものだし、ケチつけた人は、会社にケチをつけた事になるのだから。
私達は、神の国の倉庫番なのに、あたかも、自分の家の倉庫番であるかのようにふるまうから、他人の評価が気になってしまう訳である。

「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。」(5節)
裁いてはならない、とは有名な言葉だが、それは、他人を裁くだけでなく、自分を裁く事も含まれている。
なぜなら、私達はもはや私達のものではなく、私達の所有権は、イエス様に移ったのだから。
だから、勝手に「自分をさばく」という事も、してはならない。

「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。」(4節)
これは、逆に考えれば、私達にやましい所が大いにあったとしても、それで有罪にされるわけでもない。
唯一、裁く権利のあるお方は、主である。

だから、やましいところがあろうと無かろうと、自分は有罪だ無罪だ、といった裁きは、無意味である。
私達は、人の評価や自分の評価は止め、ただ自分自身という「託されたもの」を忠実に管理する事が、求められている。

この世において、管理するものを、小さなものだと思ってはならない。
もし地上で忠実に管理するのであれば、天において、さらに大きな事が任されるからだ。

地上における事はしっかり管理し、かの日には、主から「良くやった、良い忠実な僕よ」と賞賛される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:にわかに信じがたい事の連続(1コリント3:16-23):右クリックで保存
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本日の箇所は、にわかには信じがたい事が連続して書かれている。

パウロは言う。あなたがたが、神の神殿である、と。
私達が「神殿」であるからには、私達という器は、神を宿らせている、という事であり、そして私達は、聖なるものである。
そうであるからには、私達を攻撃するものは、神を攻撃しているのであり、そのような者は、神が取り扱われる。

パウロはさらに続ける。
「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(1コリント3:22-23)
パウロもアポロもケファも世界も生も死も、みな私達のもの?!
これもまた、にわかには信じ難い事である。
しかし、御言葉にそう書いてあるからには、アーメンといって受け入れるだけである。

なぜこれら全てが、私達のものか。
それは、私達はキリストのもの、そして、キリストは神のものであるからだ。
私達がキリストを「主人」としているなら、夫なるキリストは、計り知れない富と知恵、力で満ちておられるお方だから、全ても私達のもの、という事になるのだ。
「わたしはあの人につく」とか、「わたしはこの教えにつく」といった主張は、なんと馬鹿げているだろう。
私達にとって、まことの主人なるイエスキリストこそ全てであり、このお方を知れば知るほど、世の何者も色あせてしまう。
私達は、自分の立場というものを、よくよく理解すべきである。

エペソ1:20-23
「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」

私達の内に宿っておられるお方は、すべてにおいて、すべてを満たしておられる方。
キリストの名の元に召しだされた私達、すなわち教会は、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場である。
その私達の主は、今の世ばかりでなく、後の世においても、あらゆる名の上に置かれている。
そしてなんと、私達は、そのお方をお入れする神殿なのだ。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。
そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(エペソ1:17-19)

礼拝説教メッセージ音声:キリストという土台の上に(1コリント3:10-15):右クリックで保存
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パウロがコリントに行って伝えたのは、哲学など人間の知恵ではなく、説得でもない。
彼は、神の知恵の現われである、十字架のキリストを伝えに行ったのだ。

すなわち、パウロがコリントに行った時に据えた土台とは、イエスキリストという土台であり、このお方こそ、全ての教会の土台なるお方である。

人はその土台の上に、色々な材料を使い、神の宮という家を建てて行く。
私達はどのようにしてこの家を建てて行くべきか。それは、イエス様の言葉を聞いて、行う事によってである。
その者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人であり、イエス様の言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人である。(マタイ7:24-27)

あの牧師の説教は斬新だ、最先端だ、おしゃれだ、などと、表面的な評価するだけで、その中に語られている御言葉を聞いて行わないのなら、それは砂の上に立てる人のようなものだ。
単に聞くだけの人と、聞いて行っている人、その二人の10年後の成り立ちは、鮮やかに、残酷なまでに、違って来てしまう。

キリストという土台の上に、御言葉を行うという事によって、自分という神の神殿を建て上げるのであれば、その建物はいつまでも残る。
対して、人間の教えや人間の知恵によって建てるのであれば、その建物は、かの日には焼かれてしまう、とパウロは言っている。(15節)

神は、焼き尽くす火(consuming fire)であり、私達の礼拝を、唯一受け入れてくださるお方(consumer)である。(ヘブル12:29)
神の火は、私達を信仰の試練として試し、聖霊の火に浸しこまれる時、私達は力に満たされ、全世界に対しキリストの証人となる。
また、敵に対しては焼き尽くす火となって私達の先頭を進んで下さる。(申命記9:1-3)

もし、この火を通って、何かが残るなら、それは私達の栄誉であり、焼けてしまって何も残らないなら、それは私達の恥である。
「建物自体は燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(15節)
私達の生前の恥は全て燃やされ、土台であるキリストだけが永遠に残される、というのは、実は、永遠を生きる上では、大きなあわれみである。
もし私達による、神抜きで作ってしまった気恥ずかしい作品が、永遠に残るとしたら、永遠に恥じながら、生きていかなくてはならない。

「斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。
彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。」(ヨシュア6:23,24)

遊女ラハブは、神の民の使いを穏やかに受け入れ、かの日には、その彼らによって安全な所へとかくまわれた。
私達も、知らない間に、もしかしたら神の使いを助けているかもしれない。
かの日には、神の使いは私達を安全なところへと匿ってくれる。

エリコの町が火で焼き滅ぼされたように、この世の全ても火で焼き滅ぼされるが、金が銀、鉄の器などは、主の宝物倉へと運び込まれ、永遠に主の御用とされて用いられるのである。
私達がこの世で、金や銀など朽ちないものによって建てるのであれば、永遠の聖なる神の都へと運び込まれ、そこで永久に用いられるのだ。

だから私達は、この世の生活において、神のみ言葉どおり実行する事により、永遠に残る尊い材料で、この神の宮を建て上げていくべきである。
キリストという土台の上で、御言葉の実行によって家を立て、かの日には、尊い器として永遠に残り、永遠へと用いられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:目に見える人にではなく(1コリント3:1-9):右クリックで保存
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「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」(1節)
堅い食物とは、みことばの事で、霊的幼子は、御言葉を柔らかく噛み砕いてあげないと、食べない。
信じて間もない人にはそうする必要がある。
しかし、信じて10年や20年も経っているのに、いつまでもそのような事を要求しているようであれば、嘆かわしい事である。

皆さんは、御言葉を忘れて、人の言葉や人からの評価に、振り回されたりしてはいないだろうか。
あるいは、私は誰につく、彼につくと言って、分裂を引き起こしたりしていないだろうか。
私達一人一人は、人や、目に見えるものによって養われるのではなく、御言葉の食物によって養われるべきである。

霊的幼子のもう一つの特徴として、御言葉には何も求めず、パウロやアポロ、牧師先生といった、目に見える「人」に求め続け、そして、そういった働き人に、信仰の土台を置いている事である。
「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」(5節)
パウロやアポロ、牧師先生たちは、皆さんの職場や家庭に、いつでも共にいる事はできないが、皆さんはいつでもどこでも、御言葉から直接、必要十分な養いを受ける事ができる。
だから信仰生活は、教会の中ではなく、教会を出て家庭や職場に戻ってからが、勝負どころである。

大切なのは、御言葉を蒔いた人でも、注いだ人でもなく、成長させてくださる神である。
目に見える人間にではなく、決して離れる事の無い、イエス様に望みを置く皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:世の知恵にではなく御霊に(1コリント2:12-16):右クリックで保存
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コリントの人たちが分裂しているのは、人間の知恵に頼っているからだ、と、パウロは指摘する。
神の国の事柄は、人間の知恵によっては決して理解できない。
神がおられるのかどうかも、21世紀の科学さえはっきりさせる事ができていないし、何千年も培ってきた叡智も哲学も道徳も、人の罪を除くことは出来なかったし、完全な国家を構築する事も出来なかった。

自然に目を留めれば、永遠なる神様の存在を見る事が出来るが、人類歴史に目を留めれば、人の罪深さや不完全さ、はかなさが、浮き彫りにされているのを見るだけである。
神の知恵のほうが、人の知恵よりも、はるかに勝っている。
ところが人間は、はかない目に見えるものの方を、どうしても頼ってしまいがちである。

コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や弁論術、道楽も発達していたため、彼らの耳と目はとても肥えていた。
いかに目や耳、感情に訴えるか、という事を求め、それが良い物だという価値観があった。
しかしパウロの話は目や耳、感情に訴えるものではなかった。
だから彼らは、彼の語るかんじんの御言葉やいのちに、全く目を留める事ができなかったのである。

ところが、神の国に属する事とは、御霊によって解くのである。(14節)

生まれながらの人間、すなわち「魂の人」は、心の中でぐるぐる考えを巡らすしか出来ないため、神の国の事を受け入れる事が出来ない。
対して、御霊を受けている人、すなわち「霊の人」は、全ての事をわきまえるが、彼自身、誰にもわきまえられる事がない。
また、霊の人は、キリストの思いを持っている。(16節)
キリストが思うように思う。その思いを、御霊は与えてくださる。

キリスト者とは、世の人からすれば、わきまえられる事のない、本当に理解不能な人種である。
世の人はキリスト者を見ていて思う。

なぜあの人は、あんにあに悲惨な状況なのに、あんんあに平安なのだろう。
なんであの人は、邪悪な人間に仕返しせず、良いことばかりしてあげているのだろう。
なぜ、彼らは祈るだけで、あんなに平安なのだろう。

ところが実際、キリスト者は、それら全ての苦しみや災いから、助かってしまうのである。
人類にとって最高の敵である「死」すら、彼らを打ちひしがれさせる事が出来ない。
世の人は、そういう事を見て、神がいるんじゃないか、と思って、入信した人も多い。

御言葉というものは、世の人から見れば愚かに見える。
ところが、信じる者にとっては。神の力の現われとなるのだ。
信じる者には助けぬしなる御霊から力が与えられ、慰めが与えられ、あらゆる良きものが与えられる。

キリストは、恵み深く、憐れみ深く、愛に富んでおられ、気前が良く、癒し主であり、いのちの主である。
世の知恵でなく、キリストを豊かに宿らせ、御霊に満たされる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:人の知恵によるのでなく(1コリント2:6-11):右クリックで保存
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人の知恵は、いかに勉強し、いかに経験するかによって増していくものだが、神の国の事柄は、人の知恵によっては理解し得ない。
人類歴史が培ってきた、科学や文学といった人間の知恵によっては、決して悟るとこはできないため、21世紀となった今となっても、神の存在を立証したのかしないのか分からない状態である。

「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」(1コリ2:7)
この神の知恵の最たるものが、イエスの十字架の事である。
イザヤは預言している。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(イザヤ53:1)
一体誰が、自分達のメシヤが、十字架につけられるなど予想できただろうか。
神のなさる事は、人には、とうてい思いもよらない事である。
「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」」(1コリ2:9)

御霊の光による照明がなくては、御言葉を悟る事は出来ない。
御霊に導かれて歩むには、私達は罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きている者である、と、自由意志によって「仕分け」する事、そして、霊に従って歩むかそれとも肉に従って歩むか、という二者択一の場面で、霊に従って歩む事を選び続ける事である。
そうやって御霊に従って進む者は、豊かな御霊の実を結んでいく。

御霊によって歩み、多くの豊かな実を結ばせる皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:十字架につけられたキリストのみ(1コリント2:1-5):右クリックで保存
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コリントは当時のギリシア文化の中心地で、哲学や雄弁術、詭弁学が盛んであり、色々な娯楽もあったため、コリント人の目と耳は、現代日本のように、非常に肥えていた。
それだから彼らがパウロについて気を留めたのは、御言葉のいのちではなく、外見の弱々しさや話ぶりのなってなさ、という、キリストのご性質とは関係の無いことについてであった。(競灰螢鵐10:10)
今日でも、語られる御言葉ではなく、説教者の見栄えや話し振り、ステータスなどに気を取られて、その話している御言葉を右から左へと素通りさせているとしたら、当時のコリント人同様、叱責されても仕方無い。

パウロがコリントでは弱く恐れおののいていた(3節)のは何故だろう。
また、何故すぐれた知恵を用いて神のあかしを宣べ伝えることはせず、十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したのだろう。
それは、彼がコリントに着く前のいきさつを見れば納得がいく。
彼はマケドニヤで何度もユダヤ人たちの暴動に遭っては別の地に逃れるという事を繰り返し、シラスやテモテを置いてギリシヤへと半ば逃げるように、一人ぼっちでアテネに着いたのだった。(使徒17章)

実はパウロは、このアテネのアレオパゴスで、雄弁術的に知恵を用いて福音を説明しようとしている。
有名な詩人の詩を引用し、彼らが知らないで礼拝している神の正体は、実は天地を創造したまことの神である、よって偶像崇拝は意味が無い、
そこから真の救い主、イエス様へと話を持っていこうとした所で、唐突にメッセージは終了してしまう。
それは、死者のよみがえりの話になった途端、アテネの人々はあざ笑い、「その話だったらまた後で」と言って2度と聞こうとしなかったからだ。
そういうわけでパウロがコリントに到着した時、弱く恐れおののいており、そして雄弁術的に人を説得する事も止め、イエス・キリスト、それも十字架につけられた彼のほか、何も知るまいと決めたのだろう。

パウロはコリントでは弱々しく恐れおののき、雄弁さのかけらも無かったというのに、なぜ大勢の人達が信じ、救いに導かれたのだろう。
それは、イエスの十字架の言葉こそが、神の御霊と神の御力の現われだからである。
多くの娯楽と不品行に溢れ、目と耳が非常に肥えているコリントの人が、聖なる者へと造り変えられるのは、雄弁さでも説得でもなく、十字架につけられたキリスト、ただこのお方のみである。

もし雄弁さや説得によってパウロになびいたのであれば、他の優れた雄弁家、優れた娯楽が来れば、すぐに捨ててしまっていただろう。
しかし、信仰は人の知恵によらず、神の力によるからこそ、このような町にあっても人は造り替えられ、聖なる者となったのである。

十字架につけられたキリスト、このお方にのみ望みを置き、神の御霊と神の御力を現す皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:誇る者は主を誇れ(1コリント1:26-31):右クリックで保存
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十字架の福音とは、世の人からすれば、実に愚かである。
なにしろ、世界を救うメシヤが、裸にされ、あざけられ、十字架で公開処刑された、というのだから。
知者であればあるほど、また力ある者であればあるほど、それはばかばかしく、受け入れ難い。
福音はなぜ、わざわざ、そうなのか。
それは、この世の力ある者達をはずかしめるためである。(1コリント1:27)

コリントの人たちは、世の価値観のまま変わらず、世において富を得、高められ、力ある者、知恵ある者となる事を、求めていた。
彼らは福音を、この世的なステータスや祝福を求める価値観だったからこそ、争いや分裂が絶えなかったのだ。

キリストに望みを置く者は、概して、知者も、権力者も、力ある者も、そんなに多くは無い。古今東西、大体そうである。
それでキリスト教は弱者が信じる宗教だと言われるが、それは逆である。
神が、この世の弱いものを、敢えて選ばれた。(28節)だからこそ統計的に、知者や権力者、力ある者は少なく、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者が多いのである。

キリストに望みを置く皆さんは、地位のない者、無に等しい者、見下げられている者と言われて、不愉快になるだろうか。
もしそうなら、コリントの人と同じく、価値観はこの世に向かっているのだ。
イエス様が、無に等しい見下されている者を、あえて選んで下さったのは、誰も誇らせないためであり、私達が誇るべきは、ただ主だけである。

しかもなんと、私達が為す良い行いをも、あらかじめ備えれていたのだ。(エペソ2:8-10)
ここまで来ると、もはや誰も自分の何かを誇る事ができない。

私達が世にあって歩むとき、何を求めるべきだろうか。
お金だろうか?地位だろうか?知恵だろうか?力だろうか?
私達は、それらを豊かに与えて下さり、楽しませて下さる主をこそ、求めるべきである。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(1テモテ6:17)

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