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メッセージ - 1コリント人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:婚期の娘を持つ父親への勧め(1コリント7:36-40):右クリックで保存
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今日の箇所は、処女の娘を持っている父親や後見人に対するパウロの勧めです。
他の聖書の訳ですと「自分の娘」ではなく「自分の(結婚しようとしている)相手」と訳されているものもあるのですが、ここで使われているギリシア語は「結婚させなさい」であって、「結婚しなさい」ではありません。
ですからここでは、未婚の娘を持つ父親や、身寄りのない女の子を面倒をみている長老達に対する勧めと思われます。
パウロはここでも一貫して、結婚するよりも、独身でいられるのであれば、そのほうがより優れている、と勧めています。

ここを曲解して、パウロは結婚は悪で、独身を貫くのが清い、と教えていると勘違いしている人もおります。
パウロも何度も言っていますが、ここの箇所は命令ではなく勧めです。
なぜ独身の方が良いと言っているのでしょうか。
それはパウロのように、主を第一として専心している者にとっては、結婚はむしろ妨げとなるからです。

パウロ自身の手紙においても、終わりの時代には、結婚を禁じる者も出てくる、しかしそれは悪霊に心を奪われた者の偽善だと指摘しております。(第一テモテの4章1節から5節)
結婚は、主が定めてくださった偉大なる奥義ですから、結婚を禁じるということは、むしろ、人を不自然な状態へと導くことになります。
何か聖職者になるためには、結婚してはならない、というような宗教には、大体、男性同士の不品行や、幼児性愛といった不品行がはびこっております。
パウロが独身のほうが優れているといったのは、あくまで主に専念するためであって、結婚を禁じることが神に喜ばれるからではないのです。
結婚に限らず、食物とか、何か禁じることによって、逆にそのことで情欲が芽生え、罪の踏み台となってしまうようでは、本末転倒です。
神がつくられたものはみな良いもので、感謝して受けるのであれば、捨てるものは何もないのです。

また、パウロは他の個所で、結婚させなさいと言っている場面もあります。

第一テモテの5章9節から16節までお読みしましょう。
ここではパウロは、若いやもめは結婚して子供を産みなさい、と言っております。
それは、結婚しないことによって、その人は、良くないことをするようになってしまうからです。
結婚でも食物を禁じることも、それは主に専念することであれば、結構な事ですが、それによって機会を得て、情欲に引き摺り回されるようであれば、結婚しなさい、あるいは食物をとりなさい、と勧めているわけです。

パウロがなぜ独身のほうがよいと言ったかといいますと、パウロ自身の生き方、パウロ自身の経験によるものです。
彼自身、色々な聖徒たちが、世を愛したために信仰を離れていくのを見て、嘆きました。
配偶者や、子供、両親を愛するのは、それはよい事ですが、しかし、主よりも世のほうを愛して、信仰の道から遠ざかってしまうのは、救いの道から遠ざかってしまう事で、よくないことです。

パウロは、生きるにしても死ぬにしても、主のために生き、主のために死ぬ、それほどの主に対する熱い思いがありました。
それと同じように、パウロと同じように志をできるのであれば、結婚をしないほうがよいと勧めているのであります。
結婚するにしても、しないにしても、いずれにしても、主の為に専心することこそ、大切なのです。
自分で自分の情欲を抑えきれない、あるいは欲望を抑えきれないのであれば、むしろ結婚して、しっかりと結婚生活を送りながら主に仕えていくほうがより秩序のある生活になります。

どうか、主にあって秩序正しく生活していき、願わくば、主に専念する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:心の王座を主に委ねよ(1コリント7:25-35):右クリックで保存
韓国語通訳有

7章は結婚の事についての個所です。
今日の個所は、処女や結婚していない男への勧めです。

ここでパウロが記しているのは、勧めであって、命令ではありません。
パウロの意見をまとめますと、結婚をしていない者はそのままの状態にとどまるのがよい、ということです。

その理由は、26節には、今危機が迫っている状態にあるので、と書かれており、また29節に、時は迫っている、とあります。
この当時、パウロがコリント人への手紙を書いたとき、既に、信者に対する、ローマ政府からの迫害がおきておりました。
また、キリストの再臨は近いと考えられておりました。

そのような状況で家族を持つということは、その身に苦難や思い煩いを招くことでした。
例えば、妻が捕まる事によって信仰が萎えてしまったり、このようなご時世で、子供をキリスト者として健全に育てられるだろうかと苦悩したりすることです。

今の世の中では、クリスチャンでなくても、結婚したり、子供を産んだりという事が困難と予想される時代であります。
事実、今の若者は、結婚について、子供を産むことについて、思い悩む人も大勢おり、戦争や地震の噂や、また、人の心が冷たくなって、
子供が健全に育つのが難しい時世だからです。

それでパウロは、主にあって信頼できる者として、結婚していないのであれば、なるべくしないように、と勧めたわけです。

29節から31節を再びお読みしますけれども、
「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。
今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、
物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」

もちろん、妻や夫を得たり、持ち物を所有することは、それ自体、悪いことではないのですけど、
それらに執着しすぎて、主よりもそちらのほうを、思い煩いうのであれば、
むしろ初めから持たないほうが主に専念出来て良い、ということです。
つまりパウロの言いたい事の要点として、世のものは過ぎ去るものだから、執着しすぎないよういに、という事です。

よく、物に支配されてしまって、家の中が自分が動くスペースよりも、
物が占めるスペースのほうが多くなってしまう人もいますけれども、
その場合は、物を持たないほうがむしろ自由になります。
みなさんの心の内でも、心のスペースに主をより多く占めるのであれば、
皆さんは、より自由になっていきます。

パウロが求めていることは、秩序ある生活を、主にあって送る、ということです。
35節、「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、
品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」

私達の生活のなかで最も大切なのは、主に奉仕をするということなのです。
結婚や、人間関係や、また持ち物などが、自分の心を思い煩わすものとなってはなりません。
心のうちの拠り所、自分の王座に、主に座っていただくのであれば、何が最善なのか分かりますし、主も最善へと導いてくださいます。

どうか、主を第一として、秩序ある生活をしていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します、アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:召されたままの状態で(1コリント7:17-24):右クリックで保存
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キリスト者である私達一人一人は、神に呼び出された者達、世のシステムから天のシステムへと組み込まれ、死と呪いに属する者からいのちと祝福の内に入れ替えられた者達である。
しかし具体的な生活や、仕事とか家庭状況を変えなくてはならないというものではない。
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。」(17節)

私達が今置かれている場所・状況において、主が召しだしてくださったからには、その現場・状況こそ神様から提示されている働くべき領域である。
私達にはそれぞれ分があり、そこを背伸びして、分を超えた事をわざわざする事も、それが出来ないと言って憂うような、いらぬ先回りも、全く必要無い。

「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。」(20、21節)

今の状態が、奴隷であろうと主人であろうと、従業員であろうと雇用主であろうと、主婦であろうと働いていようと、そうした立場は主の御前に関係なく、大切なのは、神の命令、すなわち、御言葉を守る事である。
しかし、不正な利益を得る事や、不品行の生活など、主に喜ばれない習慣からは脱出するべきであり、主に助けを求めるなら、たとい、自ら止める事が出来ないような状況であっても、主はそこから救い出して下さる。

バプテスマのヨハネが現れた時、彼はまず群集に、悔い改めにふさわしい実を結べ、戒めた。(ルカ3:7-14)
バプテスマを受けたから、教会に通っているからと言って、何でもかんでも許されているわけではなく、悔い改めるためにバプテスマを受けたからには、悔い改めに相応しい実を結ぶべきである。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(ルカ3:8,9)
バプテスマ受けたといって安住し、以前の生活に留まったまま、何ら悔い改めの実を結ばないなら、やがて切り倒され、火に投げ込まれてしまうのだ。

群集がヨハネに「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたとき、彼は、困っている兄弟姉妹に分け与えなさい、また、自分の職務を越えて、持っている権力や力を乱用する事無く、頂いている給料で満足しなさい、と勧めた。
私達は、主から頂いている分を超えず、各々がそれに従い、召された状態のまま歩むべきである。

イエス様のいのちの値段によって買い取られた者らしく、悔い改めに相応しい行動をし、それぞれ与えられた環境、場所、能力に応じ、豊かな実を結ぶ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:夫婦の信仰生活(1コリント7:10-16):右クリックで保存
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今日の箇所は、既に結婚した人達への命令と勧めである。
「更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。」(10節)
パウロは結婚という経験が無かったにもかかわらず、夫婦生活や結婚について大胆に命じる事が出来たのは、その命じた内容は御言葉に即した事、主が確かに言われた事だったからである。
キリスト者同士が、兄弟姉妹に勧めたり、命じたりする時、その内容が御言葉通りであるなら、相手がたとい目上であろうと、たとい自分にはその経験がない事柄であろうと、命じる事が出来るのだ。

主はこう言われた。
「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ 19:9)
結婚とは、男と女が、神の御前に一つとなる事で、安易にして良いものではなく、神が既に一つとしたものを、人間が勝手に引き離したりしてはならないものである。
だからパウロは、既に別れてしまったのなら再婚せずにいるか夫のもとに帰りなさい、また、離縁してはいけない、と「命じて」いるわけである。

次に、夫婦の片方が信者で、片方が信じていない場合についてであるが、そのケースは聖書に明示されていないため、パウロも「主ではなくわたしが言うのですが」と前置きし、信仰の先輩として助言している。
伴侶が信者でなく、なおかつ、その人が自分と一緒にいる事に、反対でないならば、離れてはならない、とパウロは勧めた。

自分がクリスチャンである事を、伴侶が承知し反対しないのなら、その人は、キリストに反対しない者、主に味方する者と見る事ができる。(マタイ9:40)
「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。」(14節)
パウロは他の箇所でも「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)と言っているため、どうやら、救われる事・聖とされる事というのは、家族単位であるようだ。
伴侶が何十年目でやっと信仰に入った、というケースは数多くあるため、もし、相手が自分と離れるつもりが無いのであれば、希望を持ちつつ信仰生活を続けるのは、大いに結構である。

しかし、もし相方が、自分の意志で明確にキリストに反し、キリストを信じている自分から、離れていく、というのであれば、離れていくに任せるよう勧めている。
「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(16節)
私達に願いとしては、「妻が、あるいは夫が、救われて欲しい」というのがあるかもしれない。
しかし、救われる・救われないというのは、各人の自由意志に委ねられており、それは神であろうとタッチできない領域である。
神様は、私達が信仰よりも結婚という関係が優先させられ、それに縛られる事は望んでおられず、主を中心として、平和に与らせるために、私達を召して下さっているのだ。
だから、もし信者でない妻あるいは夫が、離れていくのであれば、それに任せなさい、とパウロは勧めている。

いずれにせよ、最も優れているのは、夫婦そろってキリストを信じる信仰に至る事である。

結婚されている方は、キリストの平和の内に夫婦生活を送るように、また、結婚されていない方は、キリストを信じる幸いな伴侶を得るように、主に導かれる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:夫婦の営み(1コリント7:1-9):右クリックで保存
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第一コリントは、6章までがコリント教会に対する叱責で、7章からは、コリントの人達からパウロに対する質問への回答、という形になる。
今日の箇所は、結婚や独身に関する質問への回答で、未婚の人あるいは何らかの理由で配偶者がいない男女への勧めである。
しかしその中で、3節から5節の間に、もし結婚したなら配偶者に対して果たすべき義務を果たしなさい、という勧めが挿入的に書いてある。

1コリント7章では、一人身だと情欲が燃えて不品行に走りやすい、それを防ぐために結婚しなさい、というような順番で書いているが、結婚はそんなに軽々しいものではなく、偉大な奥義であるとも、パウロは言っている。
結婚とは、単に情欲を満たす相手を得たいから、自分の憧れや願いごとを叶えたいから、といった、自分中心の理由で為すものではない。
結婚は、ひとつ体となる関係であり、しかも、体に関する権利は、相手にあって、自分には無い。
その事を伝えたいから、パウロは3-5節までの事を挿入したのかもしれない。

夫婦であれば、妻として、夫として、果たすべきつとめは、果たさなくてはならない。
「妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。」(4節)
もしあなたが妻なら、その体は夫のものであり、もし夫ならその体は妻のもの、つまり、自分のからだの権利は、自分ではなく配偶者が持っているのだ。
皆さんはこの事を、受け入れられるだろうか。書いてある事は厳しすぎると思うだろうか。
しかし、ここに書いてあるのは御言葉である以上、その通りの心持ちで行なら、その夫婦関係は、実にに祝福されるのだ。

夫と妻は一つ体となっている、と書いてある以上、夫婦という関係は、そういうものなのであり、キリストと教会の関係についても同様である。(エペソ5章)
夫婦の一方が不足を来たらしているのであれば、相方がその不足を満たし、互いに補い合って、完全を目指して互いに建て上げ合って行くものである。

いずれにせよ、結婚生活も含め、全ての営みは、主を中心とするべきで、そして、結婚するよりは、主のために独身を貫く事のほうが、より優れている、とパウロは勧めている。
それは命令ではないが、なぜ独身のほうが優れているかというと、結婚する人たちはその身に苦労を負う事になるからであり(28節)、
結婚するとどのような苦労を負うか、というと、結婚する前は、主に専心して捧げ尽くす事ができても、結婚したら、捧げるべき相手がもう一人増えるからだ。
それまで、主にのみ向いていた心が、伴侶、すなわち”世”にも向いてしまい、心が分裂してしまうのだ。(32-34節)

しかし結婚するからといって悪いわけでもなく、パウロも、その事は命令ではなく、勧めとして書いている。
いずれにしても、最も大切なのは、夫婦関係よりも、主との関係である。

主を中心として、秩序のある生活を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ひとつ(1コリント6:15-20):右クリックで保存
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キリスト者である私達は、キリストの体の一部であり(15節)、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり(19節)、代価を払って買い取られた(20節)者達である。
私達はキリストと一つとなっており、遊女と交わる事はすなわち、キリストの体の一部を遊女の体の一部とするという、とんでもない行為である。(15節)

神はどのように、人を男と女とに創られたか。
神は男を深い眠りにつかせ、そのあばら骨取り、これに肉をかぶせ、女を造られた。
そして神が女を男のところに連れて来られ、男がその同じ肉、同じ骨、同じいのちを共有する助け手と出会った時、次のように喜び叫んだ。
「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう、まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(創世記2:23)

聖書において、「ひとつ」という言葉は、とても重要なキーワードである。
男と女がひとつとなり、いのちを生み出すように、キリストと私達がひとつとなって私達は永遠のいのちを生み、キリストとひとつとなった宣教によって、ますますいのちを生んで増えて、地に満ちて行くのだ。
そしてやがて、キリストと教会が結婚してひとつとなり、永遠を生きるのである。

キリストは教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。
それは、教会をきよめて聖なるものとし、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のない花嫁とするためである。(エペソ5章)
人がキリストを信じ、主とする時、キリストが「主人」すなわち夫となり、その同じ肉、同じ骨、同じいのちとなる。
そうしてキリストの血によって清められ、傷や、しみや、しわ等の無い花嫁とされた私達をキリストが見る時、キリストは、私達を喜び楽しむのである。
「若者がおとめをめとるように、あなたを再建される方があなたをめとり、花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:5)
「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ3:17)

それほどまでに私達は愛され、私達のからだが尊いものであるなら、どうしてこの体をおろそかにできるだろう。
キリストの体の一部として、聖霊が宿ってくださる神殿として、また、キリストの命の値がつけられた者として、それらしく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:召しだされた聖なる者として(1コリント6:9-14):右クリックで保存
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主日の収穫感謝祭では、栗がイガの中に入った状態だったが、実はあれは、イガは自然に落ちているものを拾って来て、その中に、店で買った栗をはめ込んで、飾ったものだ。
それはあくまで、飾りのためだったけれど、皆さんがもし偉大な王様に栗を献上する時、イガがついたまま献上して「はいお召し上がり下さい」などと出来るだろうか。

「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(1コリント6:9-10)

ここにリストされている事は、以前に属するもの、もはや過ぎ去ったもの、捨てられるべきもの、栗のイガに似た「もみがら」の類であり、それをつけたままでは、主の御前に捧げられるものではない。
そのような以前の事どもを引き摺ったまま「神は全てを受け入れてくれるのだから」と悔いて改める事をしないのであれば、主は受け入れて下さらない。

「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(11節)
私達が留まるべきは、洗われ、聖なる者とされ、義として下さった「主イエス・キリストの名」の内に、である。
そうであるからには、もはやもはや古きに属するイガや渋皮といった「もみがら」と言ったものを、主の御前に、再び身につけるような事は、すべきでない。

『「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。』(12節)

人間には神の似姿として自由意志が与えられており、神であっても、その自由意志を操る事をなさらず、アダムが罪に陥る選択をした時でさえ、強制力を持って人を支配なさる事をしなかった。
キリスト者とは確かに自由とされた者である。
しかし、すべてのことが益になるわけではない。
盗みをすれば、それなりの報いを刈り取るし、姦淫を犯しても、それなりの報いを刈り取る。
キリスト者とは、11節にあるとおり、主イエス・キリストの名と神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされた者達である。
だからキリスト者は、聖なる者として召しだされた以上、それに相応しく歩むべきであり、聖なる品位を保つべく努力をしなくてはならない。

競技をする者は、自らを節制する。
夜食をがつがつ食べる自由は、確かに競技者にもあるかもしれないが、そんな不摂生ばかりして太った者が、競技に勝てる訳はない。
同様に、御言葉で勧められている事を無視して、「これが私のスタイルなの!」と自分流を主張しているような者は、勝てるわけが無いのだ。
聖なる競技に立つ私達は、全ての事に節制し、何が最善であるのかをわきまえ、選択して行動しなくてはならない。

主は、私達に自由を得させるために、まさしく命を捨ててまで、私達を愛され、解放させて下さった。(ガラテヤ5:1)
だから、古き肉に属する者戻って再び奴隷のくびきが負わされる事が無いように、そして、聖なる者として召し出された者らしく歩む皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:訴えあう事について(1コリント6:1-8):右クリックで保存
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コリントの教会は、分裂分派争いがあり、不品行はひどいし、さらには、兄弟姉妹同士の裁判沙汰もあったようである。
パウロはそれらに対し、表面的に「してはいけません」と注意するだけでなく、主イエスにある私達がどういう立場であるのか、真理に立てばそうした事がいかに稚拙であるかを、示して来た。
この6章は、兄弟姉妹同士が訴え合う事について叱責しているが、ここにおいても、真実に照らして何が問題であるのかを示している。

「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。」(2節)
私達人間は、今はしばし、御使いよりも低いものとされているが、後に世界は、私達神の子の支配化に置かれるようになる。(ヘブル2:7)
それなのに、聖徒達の間に争い事が起こると、聖徒同士が御言葉に照らして戒めあうのではなく、世の裁判官を選んで裁判してもらい、自分達の失態を、世に晒している。

そもそも、訴え事が起こるのは、大体人の貪欲さが原因である。
自分の思っていた通りに人が動かない時、欲におびき寄せられだまされる時、自分に栄光を帰するための栄誉欲が満たされなかった時など。

『群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」』(ルカ12:13-15)

自分の兄弟から、いくらかでも財産を取りたいという、貪欲に由来する争いごとは、イエス様は取り合わなかった。
むしろ、貪欲に注意して警戒するよう注意し、そして、多くの持ち物を頼りとする愚かな金持ちのたとえ話へと続けた。

世に属する朽ちてゆく富のために、聖なる兄弟姉妹をないがしろにしたりして、自分を滅びに定めるような事は、実に愚かな事である。
財産を得るために、兄弟姉妹をないがしろにしたり、争ったりする者は確かにいるが、イエス様が命じられたのは、兄弟姉妹同士は、互いに愛し合いなさい、という事だった。

「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」(7節)
これは、右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい、という主の言葉に通じるものがあるが、その箇所(マタイ5:39)をよく読むと、まず「悪いものに歯向かってはならない」という言葉が先にあり、そこから、右の頬を打たれたら左の頬も、、、と続く。
つまり、悪い事をした者に「抵抗しない」事は、その者を「悪い者」と定め、その者の裁きを、正当にさばいて下さる神様にお委ねする事になるのだ。

兄弟姉妹がもし悪い事をしたら、御言葉を根拠に、柔和な心で訓戒する事、それが愛する兄弟姉妹への対処である。
そうする事で、もしかしたら悪魔に囚われているその人を、神様はあるいは悔い改めに導いてくださるかもしれない。(2テモテ2:23-26)
最も良くないのは、コリント人がしているように、愚かな議論をもって兄弟姉妹に争いを引き起こしたり、兄弟姉妹を言葉巧みに自分の所に引き込んで分裂を促したりする事である。

しっかりと御言葉を身につけ、互いに愛し合い、赦し合い、仕えあいつつ、互いに徳を立て上げて行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:交わりの純度を保つために2(1コリント5:9-13):右クリックで保存
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パウロは、不品行な者を悔い改めさせもせず相変わらず交わりを容認させているのは、高ぶっている事だと指摘し、その者を主イエスの権威によってサタンに引き渡した。
それは、彼の肉が滅ぼされるためであり、それによって彼の霊が救われるためである。

コリントの町は、現代日本のように偶像礼拝に満ち、不品行に満ちていた。
そのような事をする人達と一切付き合ってはならない、という事なら、確かに、この世界から出て行かなくてはならない。
しかし、兄弟と言われるものの中で、そのような事をする者とは付き合ってはならない、食事を一緒にしてもならない、と命じている。(11節)

私は会社に勤めている時、お酒を飲むのが好きだったが、その時この御言葉を読んで、酒が好きな私は、兄弟姉妹と付き合う資格も無い、と見出し、兄弟姉妹と交わるとき、この言葉を思い出すたびに、ちくちくと心刺された。
他の兄弟姉妹の中にも、他の罪、例えば性的不品行など、中々止められず、心刺されている方も、いるかもしれない。

そういう人たちが、自分を御言葉に照らしてさばき、罪があると認め、主に救われたい、解放されたいと願うなら、もちろん主は癒しや解放の御業を為して下さるお方である。
しかし、御言葉が何を述べているかを聞きながら、不品行や酒、偶像礼拝などを、兄弟姉妹の交わりに持ち込み、止めないのであれば、その者は、教会の交わりを乱す者である。
そのような者とは付き合ってはいけないし、一緒に食事をしてはならない。

パウロが第1コリントを書いたのは、コリントの不品行の者が悔い改め、そして実際に訪問する時、叱責とむちをもって行きたくなかったからだった。
「あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです。わたしの喜びはあなたがたすべての喜びでもあると、あなたがた一同について確信しているからです。」(2コ2:3)
罪を改めなさい、と言うのは、言う側も、言われる側も、悲しく嫌ではあるが、もしそれで罪が除かれるなら、パウロもコリント人も、喜びが沸き起こるのである。

そして実際、その手紙によって悔い改めが沸き起こった。
その人(パウロに裁かれサタンに引き渡された者と思われる)は、多数の者から受けたあの罰で十分で、むしろその人が悲しみに打ちのめされてしまわないよう赦して力づけ、そして、ぜひともその人を愛するようにと、後に書いている。(2コリント2:5-8)

兄弟姉妹の交わりとは、義なる交わりであり、聖なる交わりである。
罪を許さない、という厳しい面があるが、もし罪を悔い改めるのであれば、愛によって覆うものでもある。
何事でも、愛を基準に愛を根拠に為すべきである。
なぜなら、愛は多くの罪を赦し、また、憐れみは裁きに対して勝利するからだ。

交わりに愛と憐れみを満たし、ますます教会の純潔と一致を保つ皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:交わりの純度を保つために(1コリント5:1-8):右クリックで保存
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キリストに呼び出された者達の集まりは、聖なる集いである。
それなのに、コリントの教会には、父の妻を妻としているような者がおり、しかもその者は悠然と教会を出入りし、兄弟姉妹達は、そのような者を悲しみつつ取り除こう、という事をしなかった。

そこでパウロは、主イエスの権威によってさばき、その者をサタンに引き渡した。(1コリント5:4-5)
彼がこのような対応を取らざるを得なかったのは、コリントの教会では自浄作用が機能しておらず、本来、教会がするべき事を誰もしないから、パウロが霊においてその者を裁いたのである。
兄弟姉妹を敢えてサタンに引き渡すのは、その者の肉的な部分が滅び、また、その者の行く様を見て他の者達が戒めを受け、そして、彼の霊が主の日に救われるためである。(5節)

教会とは、何でもかんでも許して、愛して、受け入れて、、、という集団ではない。

敢えて主の嫌われる事を平気でするような汚れた者が同居したまま、自分も健全に保っていける、と思っているなら、それは誇り高ぶっている。
過ぎ越しのパンにはパン種を入れてはならないのと同じように、教会全体が主に受け入れられる捧げものとなるためには、そのような者は除かなくてはならない。
主の忌み嫌われる行いを悔い改めず、他の聖徒達に悪い影響おを与え続ける者に対しては、このようにすべき事を、パウロは模範として示してくれたのだ。

主が忌み嫌われる事を行っている兄弟姉妹は、すぐに追い出すのではなく、その前に、戒めなくてはならない。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ18:14-18)

「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」(7節)
キリストは、私達の罪の身代わりとなるために、過越の小羊として、既にほふられた。
その聖なる愛さんの場に罪を持ち込むという事は、どれほど重い罪だろう。

「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」(8節)
キリストのおられる交わりの純度を保つために、時には兄弟姉妹を戒める勇気を、常に持っておきたい。

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