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メッセージ - 1コリント人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:異言とは(1コリント14:1-19):右クリックで保存
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昨日の箇所、コリント13章は、愛についての非常に有名な箇所で、結婚式や礼拝説教など多くの機会で用いられているのに対し、本日の箇所14章は、異言についての箇所で、さほど説教で用いられる章ではありません。
それなのに、前章の3倍のボリュームを割いて、パウロは異言について説明しております。
異言といえば御霊の賜物では一番最後に位置する賜物ですが、パウロはなぜこのように、愛についてよりも紙面を割いて、詳しく説明しているのでしょうか。
おそらく、異言という賜物は、ことさら注意を要するものだから、と思われます。

13章においても、真っ先に異言の賜物を引き合いに出している所を見ると、コリントの教会には異言を話す人が結構多かったと思われます。
異言と言う賜物が活発であるのは、一見良いように見えますが、しかしそこに、愛と秩序がなかったようです。
現代でも、異言が大いに盛んな教会や個人が、持ち上げられるような所もありますが、その賜物が秩序正しく用いられていないのなら、かえって害になってしまいます。

異言とは、2節にある通り神に話すのであって、自分の霊で奥義を話すものですが、その欠点は、普通の人が異言を聞いても、何のことを言っているのか分からない、という点です。
もちろん4節にある通り、異言を話す者は自分の徳を高める、という効果はあるのですが、人の徳を高めるものではありません。

異言に限らないことですが、公の場で祈ったり御言葉を朗読したりする時、明瞭な言葉を発しない人もおります。
他人に分からない言葉で祈ったり祝福しても、他の兄弟姉妹達はその言葉にアーメンと応じることが出来ませんし、人の徳を高めるものでもありません。
例えば、明瞭でない祈りを10分するなら、その10分の間、他の人達は何も聞こえずにじっと目を閉じているだけですので、眠くなったり、他の事を考え出したして、礼拝の時間を無駄にするばかりか、秩序が無くなる事への手助けをしてしまう事になるのです。
このように、教会という公の場で、明瞭な言葉で語らない事には、色々な弊害があるわけです。

そういうわけで「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。」と13節で勧めておりますし、また、1節でも「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」と勧めているわけです。
18節を見ますと、パウロ自身、誰よりも異言を語るようですが、彼は「わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。」と、19節で言っております。

祈りや勧めをする場において、口下手だから自分の伝えたい事がうまく言えなかったり、あるいは過去の深い傷などのために何かを言おうとしても混乱して言葉が出てこないような事も、あるかもしれません。
そのような方のためにも、明瞭な言葉で語ることができるように祈りなさいと、パウロは13節で勧めているのではないでしょうか。

主は、惜しみなく皆さんの心の内を、願いを聞いてくださいます。
ますます優れた賜物が与えられ、教会の徳をますます高め合っていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:いつまでも残るものは、信仰、希望、愛(1コリント13:1-13):右クリックで保存
韓国語通訳有

前回まで、色々な賜物や働きがある事を学んで来ましたが、それらよりも遥かに優れた道があります。
それは、愛です。

何ら人を建て上げる事の無い、ひたすら不愉快な異言や祈り、というものが存在しますが、それは、その中に愛が無いからです。
異言の中に愛が無いのであれば、ただの騒がしいどら、やかましいシンバルと同じで、それは預言にしても、山を動かすような信仰にしても、身を火の中に投げ入れるような奉仕にしても、愛が無くては、何の値打ちもありません。(1-3節)

4節から7節までを見ると、私達が愛を基にして行動しているかどうかの、指標が出てきます。
愛から出た行動なら、妬みや、自慢や、高慢といったものが、一切無いはずですし、自分の利益を求めませんし、礼儀に反することもしません。
また、愛は人のした悪を思いませんし、不正を喜びません。

イエス様は、パリサイ派や律法学者の人達を、責めました。
一見、責めない事が愛だと勘違いしてる人もいますが、しかし、真実の愛は、不正を喜びません。
イエス様がパリサイ派の律法学者を責めたのは、むしろ、愛なるお方だからです。

人が人生を終えようとする時、自分の人生を振り返ってみて、宝のように輝いているのは、愛し、愛された記憶ではないでしょうか。
きっと、大きな事業を為したり、お金をたくさん得た事を思い返してみても、それと引き換えに失ったものの方が多いので、むしろ後悔するのではないでしょうか。
なぜもっと愛していなかったのだろう、なぜそんな廃れるものを追い求める事で人生の時間を使ってしまったのだろう、と。

「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(13節)

では、私達の愛が豊かになるには、どうすれば良いでしょうか。

まず、知っておかなくてはならないのは、元々、私達には愛は無い、という事です。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4:10)

私達が愛の篭った行動をするためには、まず、私達自身が愛され、愛とはどういうものかを、知らなくてはなりません。
神は、愛です。
神を知れば知るほど、愛を知って行きます。

神は、どれほどの愛を、私達に示して下さったのか。
それは、一人子を世につかわし、その方によって私達に命を得させてくださったほどの愛です。

私達は、愛されているのです。
それも、命がけの愛で。
どうか、この愛をますます知ってください。

愛されていると知れば知るほど、その幸福感によってますます人生が支配されていくようになり、ますます平安が生まれてゆき、その平和の土台に立っている時、私達も真に人を愛し、愛を基にした行動をすることができるようになっていくのです。

ぜひこの真の愛なるお方、イエスキリストの内に留まる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:優れた賜物とは(1コリント12:21-31):右クリックで保存
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私達はキリストの体であり、一人ひとりは各部分、各器官です。(27節)
「一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」と26節にあるように、キリストの体の各部分、各器官は、互いにいたわり合い、あるいは喜んだり、悲しむ、というような、感覚的・感情的な面もあり、分裂が起こらないように互いに配慮し合っています。(25節)。

キリストの体、即ち、私達教会は、互いにいたわり合うべきです。
転んで足に怪我をした時、痛さを体全体で表現するように、キリストの体なる教会の誰か一人が痛めば、教会全体が痛み苦しみを表現するものであり、「キリストの体」の一部であるからには、社会組織のような人間主体の集まりではなく、「キリストそのもの」の組織の部分部分の集合体です。
キリストというお方を表現し、キリストというお方を建て上げるために、私達は召しだされ、賜物が与えられたわけです。

「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」(28節)
ここには九種類の職制が出てきますが、この「第一に」「第二に」という順番が大切です。

世の中の価値観からは、使徒や教師になるより、奇跡を行ったり癒しを行ったりする能力のほうが、欲しいかもしれません。
しかし、神の国において最も大切な職制は、キリストの代行して権威を行使する「使徒」です。
「使徒」はギリシャ語ではアポストロス、すなわち、あるお方から権威を委ねられ、その方の代理に権威を行使する者、という意味です。
イエス様には十二使徒がおりますが、彼らはイエス様から病を癒したり悪霊を追い出す権威が授けられ、その権威を代行して実行しました。

第二の「預言者」は、未来を予知する者ではなく、その漢字が示す通り、神から言葉を預かって、伝える者です。
第三に「教師」が出て来ますが、何を教える者かと言いますと、当然、神の言葉を教える者です。
自分の徳しか高めない「異言」を語る者は一番ビリで、世で言う所の社長や支配人にあたる「管理する者」は、なんと、ビリから二番目です。

ここから分かる事は、神の国での評価基準は、どれだけ自分を捨てているか、どれだけキリストに捧げ尽くしているか、という事です。
会社組織など、世の中で評価される基準は、何が出来るか、どんな能力を持っているか、ですが、神の組織、キリストの体において評価される基準は、まったく逆です。
世の中の価値観を、教会に持ち込んでしまうと、とんだ間違いを起こしてしまいます。
世の価値観と神の国の価値観は逆転している事に気付いていない教会は、世の組織にも神の国にも属し切れず、中途半端な状態のままで、前進がありません。

31節には「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」とあります。
私達は、より優れた賜物を求めるべきです。
奇跡や癒しの賜物を求める事は、悪いことではありませんが、そうした能力を求めるよりも、自分を捨て、いかにキリストを表現する者となるかを求めるほうが、より優れた事を求める事になります。

ますます優れた賜物が与えられ、ますますキリストを力強く証する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:貴い器となる(1コリント12:12-20):右クリックで保存
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御霊の賜物の大きな特徴は、与えられている一人ひとりが、体の各器官のように、互いに補い合い、有機的に機能する事です。
私達はキリストの体の各部分であり、御心のままにキリストの働きをするべきです。

体の各部分は、互いに有機的に組み合って初めて機能し、生き生きとすることが出来ます。
もし聖徒が独立し、群れから離れてしまうのであれば、単細胞生物のように単純かつ下等な行動しかできませんし、もし、体全体が手だけ、足だけであるなら、ただの化け物になってしまいます。

野球のある球団では、他の球団からエースと言える選手を、お金で引き抜いて集めた事がありました。
結果、その球団が他のどの球団よりも強くなったか、というと、そうではなかったようです。
その球団は、一人一人の能力は確かに高いのですが、それぞれが与えられた立ち位置になじめず、うまくプレイできなかったのです。

野球とは、チームプレイのスポーツです。
エースとは、陰でフォローしてくれる人がいたからこそエースとなれたのですが、フォローされる事に慣れ切ってしまった人たちだけが集まった結果、機能不全に陥り、弱くなってしまったのです。
むしろ、一人一人の能力が弱いとしても、全体が有機的に機能する集団のほうが、断然強いのです。

教会という集団の一人一人が、たとえ社会的に弱くても、また見栄えが悪くても、その頭であるお方が、名監督であるなら、世のどの組織よりも強いのです。
教会の監督、教会の頭なるお方はキリストです。
野球の球団が強くなるためには、選手一人一人がしっかり監督の命令に従わなくてはならないように、私達も、頭なるイエス様にしっかりと聞き従わなくては、キリストの体である教会は、機能不全に陥ってしまいます。

「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(13節)
教会に一般の方が来ると、非常に不思議な所に来たな、と思うようです。
なぜなら、普通に生きていれば、絶対に接点がないであろう人たちが、互いに親密に交わっているからです。
いかに聖徒達の社会的立場や国籍が違っていようと、キリストというお方にあって、兄弟姉妹として一つとなる事が出来るのです。

私達がさらに貴い御用に用いられるには、ますます清められ、不義から離れなくてはなりません。
第二テモテ2章の20節から22節に、こうあります。
「さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。
、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。
若いころの情欲から遠ざかり、清い心で主を呼び求める人々と共に、正義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」

この箇所では、一人ひとりの聖徒たちが、大きな家の中の一つ一つの器にたとえられております。
ある物は卑しいことに、ある物は貴いことに用いられますが、尊いことに使われる器となるためには、自分自身を清め、不義から離れなさいと勧められております。
他の箇所でも「あなた方はより優れた賜物を求めなさい」と書いてある以上、より優れた賜物が与えられる望みは、確実にあるのです。

皆さんはキリストの体の各器官であり、各々主からいただいて託された賜物があります。
お互いがキリストのからだの各器官である事をわきまえ、おごり高ぶったり卑屈になったりする事無く、与えられている賜物がますます磨かれ、さらに優れた賜物が与えられるようにと、主に願ってください。

さらに優れた賜物が与えられ、さらに貴い器として用いられる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:御霊の賜物(1コリント12:1-11):右クリックで保存
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11章ではコリントの教会に秩序がない事をパウロは叱責しましたが、12章では、与えられている賜物を誇ったり、また他の人を見下したりするような人々に対し、御霊の賜物とは何かを示し、また、その賜物の正しい用い方を示しております。

コリントの街は偶像崇拝が盛んで、そのために、悪霊による不思議な現象も色々起きていたことでしょう。
そのような中において、どの霊がキリストからのもので、どの霊がそうでないかを、見分ける必要があります。
その見分け方は、一言で言えば、イエス・キリストを証しているかどうか、です。

ヨハネ16章の7節と8節をご覧下さい。
御霊は助け主であり、その方が来ると、義について、罪について、裁きについて、人に知らせますが、悪霊はむしろ、罪や義、裁きを、あやふやにしてしまいます。
続いて、14節を見ますと、御霊は、イエス様の栄光を現すものだと分かります。
すなわち、御霊の賜物が与えられる理由は、ひとえに、イエスキリストというお方の栄光を現すためであり、そして教会の益となるため(1コリント12:7)です。

たとえ奇跡を行う賜物を持っている人がいるとしても、その奇跡を行う人自身が名誉を上げるような用い方は、正しくありません。
賜物が与えられるのは、あくまで、キリストというお方を栄光化するためであり、また、教会の益となり、ますます教会が建て上げられていくためです。

この箇所を見ますと、御霊の現われ方が合計9つありますが、その源は、同じ霊です。
奉仕にも色々なやり方がありますが、その奉仕をする対象であられるお方は、同じ主です。
また、働きもいろいろありますが、それら全ての働きをなさるお方は、同じ神です。

兄弟姉妹それぞれが助け合い、キリストの体を建て上げてこそ、賜物は有効な力が発揮できます。
例えば「異言を解き明かす力」は、異言を話す人がいなければ何の役にも立ちませんし、異言を話す人だけがいても、その異言が他の人を立て上げる事は出来ません。
そのように、ある聖徒の賜物の現われを、別の聖徒が有機的に補う事によって、2人または3人が、20人または30人分の働きをする事になります。

ですから聖徒は孤立するべきではありませんし、誰かが弱いとか役に立たないからと言って、切って捨てたりして良いものではありません。
後で学びますが、弱いと見られる人こそ、かえって大切だからです。
何より、御霊の現われの存在理由は、イエスキリストというお方に栄光を帰すためです。

どうか、みなさん一人一人に与えられている賜物を、私達の主キリスト・イエスのために、秩序正しく発揮されますように。
そして、さらに優れた賜物が与えられ、より主の栄光を現していく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:聖餐(1コリント11:23-34):右クリックで保存
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今年最後の早天礼拝メッセージは、奇しくも聖餐の箇所、第一コリント11章、23節から34節までです。
イエス様は、肉体の命の最後の夜、聖餐を制定されました。

主が制定された聖餐には、とても大切な意味があります。
パンと杯をいただくのは、主の死を告げ知らせるためであり、また、「わたしの記念として」(24節・25節)これを行います。
聖餐を頂く時、私たちは、イエス・キリストというお方を覚えて、パンと杯をいただく必要があります。

パンは、イエス・キリストの裂かれた肉体を覚える意味があります。
当教会では、小麦粉を手でこねて作った種無しパンを使うのですが、そのパンを手作りする方が、お話して下さいました。
その粉は、本当によく砕かれた粉で、そして手でよくこねたものでないと、パンはうまく焼けないそうです。
イエス様が砕かれて、主の御手のうちでこねられたように、私たちもよく砕かれ、主の御手の中で陶器師の粘土のように、こねられなくてはなりません。

また、パン種や蜜のような、余計なふくらましや味付けはしてはなりません。
種無しパンは、特に味があるわけではありませんが、噛めば噛むほど味が出て、甘くなっていきます。
御言葉なるキリストも、本当によく似ています。
御言葉も外見的には特に見栄えはせず、そのままでは特に味はしないのですが、噛めば噛むほど味わいが出てきます。
そして御言葉には、私達の好む味付けを混ぜたり、ふくらましをさせてはならないのです。

杯は、ぶどうの実で作られた液体が入っています。
ぶどうも特徴的な果物です。粒々がたくさんあり、そのまとまりを一房として数えております。
イエス様は、主はまことのぶどうの木、あなた方は枝です、と言われました。
ぶどう酒は、それら、身が一つ一つすり潰されて、各々の形は留めておりません。
もはや、一粒一粒という個性や形は無いように、私達も主を礼拝する時は、各々の個性や形を主張してはいけません。

27節に、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」と書いてあります。

イエス様を信じていない方は、主が割かれた肉や主が流された血をわきまえておりませんので、聖餐には与れません。
ところが、イエス様を信じて、洗礼を受けたにもかかわらず、自分が「ふさわしくない」と勝手な判断をして、聖餐を受けない人がおります。
それまでの自分の行いを顧みるに、罪ばっかり犯して自分に良い事がないだから、自分は聖餐を受けるにふさわしくない、という判断をするのです。

もし、罪を犯したか犯してないか、という基準で、聖餐に与るにふさわしいか相応しくないかを判断するとしたら、ふさわしい者など、誰一人いません。
では、ふさわしいとは、何の事でしょうか。
それは、24・25節両方にあるキーワード「わたしを覚えて」という言葉です。
自分がどういう人間か、ではなく、イエス様を覚えているかどうか。それが、ふさわしいかふさわしくないか、です。

私達は自分を吟味する時、自分に罪がある事は、明らかに分かります。
だからこそ主は、そんな私達のために血を流し、肉体を割いてくださったのです。
私達は断然、イエス様を覚えるべきであり、流された血を、裂かれた肉を感謝しつつ、聖餐に与るべきなのです。

聖餐が渡されても拒否するのは、イエス様の裂かれた肉を、流された血を軽んじる事になってしまいます。
イエス様が購いきれないような罪はありません。
どうして私達は、イエス様がせっかく割いてくださった肉、せっかく流してくださった血を、ないがしろにする事ができるでしょか。
そのような、主の体をわきまえない飲み食いは、裁きを招くことになってしまいます。

30節には「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」とあり、これを読むと、非常な恐ろしさを感じます。
コリントで弱い者や病人、死んだ者が多く出たのは、29節にあるとおり、主の体をわきまえない飲み食いが、裁きを招いてしまった結果です。

罪が宿っている肉をまとっている皆さんが、罪を犯してきたのは、当然のことです。。
その罪を、イエス様が購ってくださった事、イエス様を信じる者は赦されるという事を、信じておりますか。
もしアーメンであるなら、流してくださった血潮を、裂いてくださった体を、ただ感謝して頂くべきなのです。

主イエス様を中心とした交わりを、清く保っていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:聖なる教会の集まり(1コリント11:17-22):右クリックで保存
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「あなた方の集まりが益にならないで、かえって害になっている」(17節)
兄弟姉妹が共に集まるのは良い事のはずですが、害になる集まりというのも、確かに存在します。

17から19節では、パウロは教会内に分裂がある事を指摘しておりますが、彼は、それが起こるのは仕方がないと言っております。
といのは、兄弟姉妹の中に、混じっている偽兄弟と、本物の兄弟が明らかにされるために、分裂が起こるのは、止むをえないからです。
教会から去っていく人にはいろいろ理由がありますが、自分の欲望が満足されない事で、教会を去っていく人は、そのまま去らせておけば良いのです。
なぜなら、教会は、自分の欲望を満足させる場ではなく、主が満足する礼拝を捧げるべきだからです。

しかし、パウロがここで叱責しているのは、教会の中で助けるべき弱い人や貧しい人を、軽んじたり辱めたりして、躓きを与えている人達に対してです。
教会は、御使いも共に参加する聖なる所であるのに、単に飲食をしておしゃべりをするサロンのように見なして集う人達もおりました。
そのような人が、めいめい我先にと食事を全部たいらげて、酔っぱらっていたようです。(21節)

コリントに近いアテネの町においては、自由階級に属する人達が日々、何か目新しいことを見聞きする事に終始し、時間をつぶしておりました(使徒17:21)。
おそらくコリント教会でも、時間を持て余して暇つぶしをしているような自由人、それに対し、夜遅くまで働いている奴隷とが、共に集まっていたことでしょう。
自由人たちは、早い時間に集まって我先にと飲食し、夜遅く疲れて帰ってきた奴隷階級の兄弟姉妹たちが空腹のまま何も食べられない、というような状況だったのかもしれません。
「単に飲食のためなら、自分の家があるでしょう」この22節からは、パウロの憤りが感じられます。

「神の教会」は、飲んだり食べたり、寝たりおしゃべりしたりといった目的のために集まる場所ではなく、聖なるお方に礼拝をお捧げする、聖なる交わりです。
教会のスタッフは、ただ単に人に仕える優しい人達ではありません。
主を差し置いて人に仕えるなんて、とんでもない事です。
教会にいるスタッフは、人にではなく主イエスに仕える人達です。

困っている人を助けるのは、確かに良い事です。
しかし、人が良い方向へと変わるのは、提供される食料やお金などによってではありません。
御言葉を聞いて悔い改める事によってのみ、人は良い方向へ変われるのであり、悔い改めの無い人達に、食料やお金をいくら与えても、それは益にならないで、かえって害になるだけです。

教会での交わりを、単に、食事や交わり、寝食とかいった「物」を目的とするのではなく、悔い改めて聖められ、御言葉によって養われる事を目的にするべきです。
御言葉にしっかり繋がり、ますます純粋となっていく教会でありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:女のかぶりものについて(1コリント11:1-16):右クリックで保存
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今日の箇所では、パウロは、女は祈りや預言をする時は、頭にかぶりものをするように、男はしないように、と指示しております。
パウロは律法を知り尽くしているはずですが、旧約律法の中には、礼拝中のかぶりものについては特に指示はありません。
パウロはなぜ、コリントの人達に、かぶりものの指示をしたのでしょうか。
それは、当時のその場所の習慣を知らなくては、理解しづらい事です。

当時の習慣として、女性は通常外を歩く時、かぶりものをして髪を隠しておりましたが、遊女はそれをせず、誇らしげに自分の髪をあらわにして「女」をアピールをしておりました。
現在でも、女性は、露出する事がより前衛的、よりかっこいい、という価値観の元に、足や素肌を露出している女性もおりますが、それと同じように、当時のコリントでも、かぶりものをかぶらないことが、前衛的で進んでいるような風潮があったのかもしれません。

しかし「コリント風」という言葉が性的不品行の代名詞にまでなったコリントという町の中の、祈りや預言をする教会という場で、女性が遊女のようにかぶりものを脱ぎ、「女」という事を全面に押し出したり自分をアピールするのは、当然、問題のある事でしょう。

女性に限らず男性でも、あがむべきお方であり礼拝の中心である方・イエス様を差し置いて、「自分の誇らしげな何か」を誇示し、主よりも注目を集めようとするのは、栄光泥棒です。
「自分の誇らしげな何か」とは、歌声や楽器奏楽テクニックかもしれませんし、朗々と出てくる祈り言葉かもしれませんし、雄弁な説得力や財力かもしれません。
それらの存在そのものは良いかもしれませんが、もしそれらが、神様から注目を奪い、人間に注目させる「栄光泥棒」となるなら、それは問題です。

現代の日本では、女性が帽子をかぶる・かぶらない事に、あまり意味はありませんが、例えば礼拝中に足など肌を露出する格好をし、人々の注目を神様から奪って、いらぬ情欲を起こさせるのは、あってはならない事です。

神は無秩序な神ではなく秩序の神であり、私達には従うべき権威の順番があります。
「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。」(3節)
パウロは女性を卑しめているわけではありません。
ただ、創造の御業には順番があり、その順番に従って権威に服従し、秩序正しく礼拝を行いなさい、と言っているのです。

さて、10節を見ますと、「だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。」とあります。
礼拝という場においては聖なる天使たちも参加しております。
天使が礼拝をする様を見てみましょう。イザヤ書の6章1節から4節です。

セラフィム(天使)は、二つの翼で顔を覆っておりました。
それは、権威は自分にではなく神にあるということを、表しております。
また、二つの翼で足を覆っていました。
それは、自らを隠す慎み深さを表すためです。
御使いがそのようにして、聖なるかな、と賛美したとき、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされました。
この御使い達のように、自らの栄光を隠して、自らの美しさを隠して、神を賛美するなら、神の栄光は、大いに満ち満ちて行きます。

天使は神の栄光を表す、神を助ける美しい使いで、女も、男の栄光を表す者として美しく創られました。
天使は、自らの美しさに驕り高ぶって、神のようになろうとしたら、投げ落とされ、サタンとなりました。(エゼキエル28:17)
ですから、女もおごり高ぶって、男に先んじようとするなら、それはサタンの道であり、また男もキリストに先んじようとするなら、それはサタンの道です。

11節、12節「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」
男性と女性、どちらが優れ、どちらが劣っているか、という議論は、ナンセンスです。
主にあって、女は男を離れてあるべきではないし、男も、女を離れてあるべきではないからです。
全ては神から出ていると書いてあるとおり、男も女も、それぞれ創られた領分を守り、創造の秩序に従って、神に栄光を捧げるのみです。

正しい秩序のうちに礼拝を行い、神にのみ栄光を捧げる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:主の妬み(1コリント10:14-22):右クリックで保存
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コリント人の一部は、イエス様を信じた後でも、なお親戚や近所付き合い等で偶像の宮に一緒に行き、偶像に捧げられたものを一緒に食べるような事をしておりました。
今回は、そのような人達への戒めです。

既に8章の方で、偶像とは単に物であって神ではなく、偶像に捧げられた肉には何の意味もない事を、パウロは語りました。
という事は、親戚づきあいを壊さないために一緒に偶像を拝み、一緒に偶像に捧げた肉を食べて、良いのでしょうか?

偶像は確かに神ではないのですが、偶像に捧げている人たちは、悪霊にさ捧げている事だと、パウロは言っております。(20節)
それを説明するために、まず16節で、聖餐の事について触れております。

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血に与ることであり、また、私達の割くパンは、キリストの体に与る事です。
また、旧約律法における肉による礼拝においても「供え物を食べる者は、祭壇にあずかる」とあります。

つまり、食べるという行為は、食べる対象と「一つになる」事を意味します。
という事は、偶像の宮に捧げ悪霊に捧げたもの食し、偶像霊すなわち悪霊礼拝をしている者と同じ食卓の交わりに加わるとは、悪霊と一つになる、という事になります。

偶像礼拝とは、霊的姦淫です。
唯一愛するべき夫がいるにもかかわらず、別の男のに走ってしまった女を、夫が激しく妬むように、神も、唯一愛すべき神がいるのに、別の神に走ってしまうような者を、激しく妬むのです。

エレミヤ3章の1節から5節までをお読みください。ここではイスラエルを、夫がありながらその夫を去り、他の男の所に行っている女に例えています。
この箇所からわかる事は、神様の目から見れば、イスラエル共同体は「妻」という立場にある事です。

現在、教会という共同体は、キリストの妻という立場です。(エペソ5章)
ですから、キリストの妻たる私たちが、別のものに走るならば、主の妬みを引き起こすのは、当然です。

妬みとは、敵意より激しい感情です。
敵を憎むのは当然ですが、共に一つとなって愛し合うべき妻が、他の男に走るとなると、敵意よりはるかに強い感情を引き起こしてしまいます。

不信者が偶像礼拝を行なっても、神にとっては大した事ありませんが、既に一度、主に愛されて、妻となった私たちが、他の神々に走るとなれば、妬みを引き起こし、不信者よりも激しい災いが起こる事になってしまいます。
「私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。」(1コリント10:22)

コリントと似たような状況である今の日本に住む私達も、気を付けなくてはなりません。
唯一愛すべきお方、イエス様から決して離れず、身を聖め、交わりを純粋に保ち続ける皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:与えられている自由の用い方(1コリント10章23-33):右クリックで保存
韓国語通訳有

『「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。』(1コリ10:23)
パウロは6章12節でも同じことを言っていますので、おそらくコリントの人達は、この言葉を根拠にして、好き放題な事を行っていたのかもしれません。
キリスト者には全ての事を行える自由が確かにありますが、「すべてのことが益になるわけではない」と言っています。

キリスト者には自由が与えられているのですが、何でもかんでもやっていい、というわけではありません。
その自由が、ある人にとっては躓きとなり、ある人にとっては滅びになるかもしれないからです。
それで「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」と24節に書いてある通り、他の人への心遣いも必要です。

偶像の宮で捧げられた肉を、食べるか食べないかの話の続きが、25節以降に出てきます。
25節に 「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。」とあります。

信仰の無い人から食事に招待され、それに応じる場合、食事が偶像に捧げられた物かどうかといった心配はせず、そのまま感謝して食べなさい、と、パウロは27節で勧めております。
信仰の無い人に招待されたら断りなさい、とは、言っていない事に注目下さい。
そんな事でなら、この世で社会生活は成り立ちません。
自分が汚れを受ける事を心配するよりも、その人の所に行って、キリストを届ける方が、はるかに有益です。

さて、ここで昨日のメッセージをお聞きになった方の中には、疑問が沸いた方もいるかもしれません。
昨日のメッセージの箇所は、偶像に捧げた肉は悪霊に捧げたものである、だから、それを食べて、悪霊と交わる者となり、主の妬みを引き起こすようなことをして良いものだろうか、という所でした。
それなのに今日の箇所では、いちいち詮索せずに、そのまま食べなさい、と言っています。
偶像崇拝者の出される食事は、偶像に捧げられたものが出される確立は高いはずですが、果たしてそれで良いのでしょうか。
それを読み解くキーワードは、30節「感謝をして食べるなら」ということです。

神に感謝を捧げて食べるなら、それは清められるのです。
「しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。
というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。 神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」(第一テモテ4:3-5)
たとえ、偶像の宮に捧げられた肉を出されても、感謝して受けるのであれば、神の言葉と祈りによって、清められるのです。

イエス様に穢れた女が触れると、その女が信仰を持っていたので、彼女は清められました。
穢れたものが、キリストイエスの名によって、清められれば、それは、清められるのです。
私達も、たとえ穢れたものを受けても、神の祈りと言葉によって、清められるのです。

なお、次の事は、私・林の信仰であって、全てのキリスト者が受け入れられる信仰では無い事を知りつつ、語らせていただきます。
日本の農作物の一部は放射能汚染されていて、市場に売られているものが汚染されているかどうかと心配しつつも、かと言って食料は必要なので、とりあえず買って食べている状況です。
私は、第一テモテ4:3-5の、感謝の祈りをして頂くのであれば聖なるものとされる、という御言葉と、また、もう一つの根拠の御言葉「信じる人々には、、、たとい毒を飲んでも決して害を受けず」(マルコ16:17-18)という御言葉を、そのまま信じておりますので、食事に関しては、出されたものはいちいち心配や詮索をせず、神様に感謝をして頂く事にしております。
但し、明らかに「汚染されている」と分かっている物に関しては、人に勧めませんし、私も食べません。
全ての人が同じ信仰に立っている訳ではありませんし、それで人の躓きとなったり、無益な議論を引き起こしたりしないためです。
(以上の事は、私の信仰であって、人に勧めるものではありません。汚染されている・されていないの判断や、食べる・食べないの判断は、各々の信仰と責任に従って行って頂きたいと思います。)
とにかく、食前の感謝の祈りは、大いに有益である事は、確かなのです。

さて、今日の箇所でパウロが伝えたかった事のまとめは「ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。」(32節)です。
ギリシア人は律法を持たない民、ユダヤ人は律法を持っている人達ですが、全ての人に対して躓きを与えないように、と強調しており、また33節にある通り、パウロは全ての人々を救うために、日夜苦心しているのです。
キリスト者には自由を与えられておりますが、その自由は、自分の好き放題、自由奔放という事ではありません。
むしろ、人を建て上げるのに、躓きとなるのであれば敢えてその自由を、あえて「制限する自由」が、クリスチャンには与えられております。

与えられている自由を、ぜひ、キリストを建て上げるために用いる皆さんでありますように。
そして、食前には感謝をささげて、頂くものを清め、また、あらゆるものに感謝して、それらを聖なるものとする、その祭司の役割を存分に発揮する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福いたします。
アーメン。

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