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メッセージ - ローマ人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:被造物全体はあなたの選択を待ち望む(ローマ8:18-25):右クリックで保存
韓国語通訳有

被造物全体は、今に至るまで共にうめき、生みの苦しみをしており、そして、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる。
簡単に言えば、被造物はイエス様を信じる者達の現われを待ち望んでいる、という事だ。

そもそも、被造物が虚無に服し、滅びの束縛に入ってしまったのは、何の故か?
それは、人が神の御声に従わなかった故である。

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。」(創世記3:17,18)

地は「人の故に」呪われてしまい、いばらやあざみといった雑草は「人のため」に生じる、という事である。
そして、被造物全体は神の子たち、すなわち、イエス様に贖われた「人達」の現れを待ち望んでいる、というのだ。
一体、私達人間は、被造物にとってどれだけ重要なキーマンなのだろうか。
それは次の御言葉から、我々がどれほど大切な存在かが分かる。

「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。(創世記1:26)

人は本来、神のかたちに造られており、全被造物を支配するようにと、造られているのだ。
人間が全被造物を支配する?そんなの傲慢だ、と思う方もおられるかもしれないが、本来の人は、そのように造られているのだ。
「人が被造物を支配する事が傲慢だ」と思う根底には、そもそも、不完全で罪のある人間がそんな事したら世界はぐちゃぐちゃになるだろう、と、誰もが容易に想像できる前提があるからだ。
事実、自然界は放射能やオイル、工場が出す化学物質など、あらゆる人間のわざによって汚染されている。

だから、人が罪を犯す以前の、神の子としての「本来の人」に戻る必要があり、被造物全体もまた、神の子たちの現れを待ち望んでいるのだ。

では、神の子となるにはどうすればよいのか?
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8:14)
神の霊に導かれて歩むには、昨日のメッセージの通り、私達が日々、自由意志によって、肉に歩む事を否み、御霊によって歩む事を選び続ける事である。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=548

御霊によって歩むのであれば、土地は祝福の良き産物を生じる。
しかし、肉によって歩むなら、いばらとあざみが生じる。

結局そういう事なら、より良く生きるためには、御霊によって歩む道を選択し、神の子になるしかないのである。

礼拝説教メッセージ音声:神の子とされ相続人とされた(ローマ8:12-17):右クリックで保存
韓国語通訳有

知らない男が突然「ついて来てタダで働け」と言っても、そんな言葉に従う責任が無いように、私たちは、肉に従って生きるという責任を肉に対して負っていない。(ローマ8:12)
なぜならキリストにあって、罪に対しては十字架につけられたため、もはや肉に従って歩む責任を負っていないからである。
しかし、もし私達が肉に従って歩むなら、私達は確実に死に、霊によって肉の欲を殺すなら、私達は生きる。(13節)

御霊によって歩む者こそ、神の子であり(14節)、子とされたからには相続人であり、世の始まる以前から用意された、あらゆる良き物を、キリストと共に相続する権利まで与えられている。
御霊は、奴隷に権威や威圧によって隷属させるような霊ではなく、神様の子とする霊、自由人とする霊である。

アブラハムは、神の約束があったにも関わらず先走り、肉体的力によって奴隷女ハガルとの子イシュマエルを生んでしまった。
しかし後に、肉の力によらずに自由の女サラとの子イサクが与えられ、神の約束が成就した。
肉の力によって支配される弱肉強食の世は、イシュマエルに属するが、キリストにある私達こそイサクの系統に属する約束の子供たちで(ガラテヤ4:28)、肉によらず、力によらず、ただ御霊によって生きる者達である。

しかし、かつて肉によって生まれた者イシュマエルが、霊によって生まれた者イサクを迫害したように、そのように今もまた同じことがなされている。
しかし、聖書は「女奴隷と彼女の息子をあなたは追い出せ。なぜなら、女奴隷の息子は、自由の女の息子と共に相続することは決してしてはならない」と書いてある。(ガラテヤ4:29)

神の子である以上、世にあっては迫害や艱難があるが、キリストは世に勝利して下さった。
神は肉に属する者を私達の周りから追い出し、子として下さった私達を、責任を持って守り、教育を施し、あらゆる良きものを受け継ぐよう、最善へと導いてくださるのである。

礼拝説教メッセージ音声:ラクして御霊の実を結ぶには(ローマ8:3-11):右クリックで保存
韓国語通訳有

私達の内でせめぎあう善と悪の葛藤から解放される方法は「いのちの霊の法則に乗る事」であると昨日学んだが、では、それを私達に適用するには、どうすれば良いか?
一言で言えば、御霊によって歩む事である。

客観的な事実として、私達の古い人間は、罪のからだが無力化されるために、イエス様と共に十字架につけられた。(ローマ6:6)
つまり、罪の根っこは、私達の内に存在論的に残ってはいるものの、キリストと共に歩む事によってそれは無力となって、私達を支配する事は出来なる。
私達は、罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きている者である、と、自由意志によって「仕分け」する事は、私達の責任であり(ローマ6章11節)、私達という器を罪に捧げるか、それとも義に捧げるか、という責任も、私達の側にある。(12節)

もう一つの私達の責任は、霊に従って歩むか、それとも肉に従って歩むかという二者択一の場面で、霊に従って歩む事を選び続ける事である。
もし霊によって歩む事を選ぶのなら、肉の欲望は沈静化される。
例えば、禁煙なんてとても事無理だ、と思っている人でも、「この身を神に受け入れられる器として用いられたい」という霊の思いに導かれるなら、難なく禁煙する事が出来るのである。(経験者談)
それは、御霊が、肉体の欲する事を沈静化させて下さるからである。
肉が欲する事は、霊が殺す。(ガラテヤ5:17,18)
その事はたばこに限らず、もう止めにしたいあの事この事、全てに関して適用できる真理である。

いのちの御霊の法則に歩むには、自由意志をもってまず「罪に対して死んだ」と仕分け、御霊によって歩む事を選び続ける事である。
そうしたら「いのちの霊の法則」が支配するようになり、坂道を自転車で下るがごとくラクに御霊の実を結び、主に喜ばれる道を歩む事が出来るようになる。
そして、良くない事も、ラクに「しない」でい続けられるのである。

礼拝説教メッセージ音声:罪と私の方程式2(ローマ7:21-8:2):右クリックで保存
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罪の解決方法は、一言で言えば、法則の乗り換えである。
日本語聖書で7章後半に「律法」「原理」「法則」とあるのは全て「ノモス」という同じ言葉、すなわち「法則」である。

法則は、その人が人格者であろうが罪深い人間であろうが全く関係無しに、その人を支配する。
ダイエットを目指している二人の同じ体重の人が、一方は人格者だから秤が軽く見積もられ、他方は悪人だから重く見積もられる、などという事は有り得ないように、キリストに無い人間が、いくら修行して人格者になったところで、罪の法則を乗り越える事は出来ない。
罪の法則と対峙するには、別の法則を適用させるしか無いのだ。

ローマ7章23,25節によると、人は3種類の法則の下に縛られている事が分かる。
すなわち、1:神の法則、2:罪の法則、3:理性の法則、の3つである。
心では良い事をしたいのだけれど、どうしてもそれが出来ない、というからくりは、これら3つの法則が人の内で攻めぎ合っているからだ。

それでパウロは自らを「みじめな人間」と告白しているが、そのすぐ後に「神に感謝あれ」と叫んでいる。
なぜか?
それは、この解決は自らの頑張りや修行などによるではなく、法則の問題であると、パウロは分かったからである。
この3つの法則のせめぎあいから解放してくれるのが、第4の法則、すなわち、4:命の霊の法則(8章1,2節。)である。
私たちがこの第四の法則に乗り換える時、1〜3の法則のせめぎあいから解放されるのだ。

例えば「空を飛びたい」という思いがあったとする。
神の要求は「空を飛ばなければならない」、そして理性の法則でも「飛びたい」、しかし「重力の法則」に縛られているので、人間は飛べない。
自分はなんてみじめな人間だろうか、という思いになるが、しかし感謝な事に、ライト兄弟が「飛行の法則」を発見した。
私たちが空に飛ぶには、飛行の法則を自分に適用させる、すなわち飛行機に乗ればいい。
もはや、ぴょんぴょんとジャンプし続ける頑張りも、髪の毛を上方向に引っ張って飛ぼうとする無駄な努力からも、解放されたのである。

私達の主イエスキリストが提供して下さった、命の霊の法則に乗るなら、罪と死の法則から解放されているのである。
それは、私達の頑張りによるのではない。
人が神による断罪が無くなるには、「キリスト・イエスのうちにある者」となる事であり、キリスト・イエスのうちにない者は、必ず断罪されるのである。(8:1)

では、いのちの霊の法則に乗るには、どうすれば良いか?
それは次回に。。。

主イエスキリストにある皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:罪と私の方程式(ローマ7:13-20):右クリックで保存
韓国語通訳有

「私」の中には、色々なモノが棲んでいる。
私たちの内側には、相反するものが存在し、分裂し、戦っている事は、私たちがうすうす気付いている事だ。
「私は、私が行為していることが、わからない。なぜならば、私は自分が欲していることを為すことをせず、むしろ自分が憎んでいることを行なっているからである。」(15節)
その自分が憎んでいる事を行わせているものが、罪である。

キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた。(ヘブル9:12-14)
私たちが犯す個々の罪々については、キリストの流された血潮を自らを適用すれば良い。
しかし、その個々の罪々を犯してしまう根源、すなわち原罪が、依然として私たちの内にある。(ローマ7:17)

「もしも私が、この自分の欲しないことを行なっているとするならば、もはやこの私がそれを行為しているのではなく、私のうちに住んでいる罪がそれを行為しているのであ。」(同20節)
この20節によると、望んでもいない事を為してしまうのは、私たちの責任だろうか?そうではなく、私たちの内に住んでいる罪(原罪)が、それを為させていると分かる。
すなわち、私、ノットイコール、罪という式が成立する。

自分は悪魔だとか、罪の人間だとか言う者がいるが、それは過ちで、罪と私たちは、イコールではない!
肉体に突き刺さっている棘は自分ではないように、罪という外来性の棘が突き刺さって、私たちはそれによって痛み苦しんでいるのである。

自分が罪深いことをしてしまった、自分はなんてダメなんだ、と言って自分を責める者がいるが、それもお門違いである。
それは例えば、犬が噛み付いた時、犬を責めずに、痛い思いをしている自分を責めているような、とんちんかんな事なのだ。
私たちが処罰すべきは噛み付いた犬であって自分ではないように、処罰すべきは、罪なのだ。

この今だ私たちの肉に残されている原罪の扱いについては次回以降に譲るが、この罪の根っこがまだ取り除かれていない以上、私たちは日々、肉の欲望に身を委ねる事を否み、キリストの十字架をこの身に適用する事によって、キリストの望んでおられることを自由意志によって選択する事を、主は望んでおられる。
主は、自らのいのちを捨てるという、深遠な贖いのご計画を立てられたほど、人間の自由意志を尊重されたのだ。

生ける限り罪との戦いはあるけれど、日々、キリストの十字架を適用していくことによって、ますます罪を犯しにくい行動パタンが焼きついていき、霊的に熟練していく。
そのように日々、キリストを選んでいく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:いのちへと至る道(ローマ7:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有

人は、禁じられたら逆にそれをやりたくなってしまう、という習性がある。
ある子供は「コンセントにハサミを入れたらダメ」と言われ、その言葉にきっかけを得、コンセントにハサミを入れたいという欲望が生じ、結果、実際に入れてしまった。
「罪は誡めによってきっかけを得て、私のうちにすべての欲望を生じさせたのである。なぜならば、律法がなければ罪は死んでいるからである。」(8節)
私達には、ダメと言われたら逆にやりたくなる衝動に駆られる性質が、エバの時からあるのだ。

律法は私達を拘束し、キリストが解放させて下さったものであるなら、律法は罪であると言うのだろうか?(6,7節)
そうではなく、聖いものであり、善いものである。(12節)
律法は神によって与えられ、それを守ればあなたがたは生きる、と言われた。
それなのに、「生命へと至る〔はずの〕誡めそのものが、死へと至る誠めであることを、私は見いだしたのである。」(10節)
律法は全て守りきれるものではないため、私たちには死以外には無い事しか見出せないのである。
律法そのものはいのちを与えない。それなら律法とは一体何か?

律法とは、約束が与えられる子孫が来るまで、私達に違反がある事を示すために付け加えられたものであり(ガラテヤ3:19)、いのちを与える事の出来るものではない。(同21節)
律法とは、キリストへと導くための養育係であり(同24節)、キリストへと導くからこそ、律法は命へと至る道なのである。
イエス様もユダヤ人に言っている。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)

つまり、いのちへと至る道は、[法によって人に罪がある事が示され、⊆分には救いが必要であると渇望が生じ、キリストの救いへと導かれる、というステップがある事を見出す。
人は嘘をつかざるをえない → 嘘をついてはならないと書いてある → だから救いが必要だ、これが正しいステップのはずだが、
人は嘘をつかざるをえない → 嘘をついてはならないと書いてある → しかしそれは不可能だから、嘘も方便、善い嘘もある、
といった、人間の勝手な解釈や教えを混ぜ込む事によって、救いからはあさっての方向へと逸れてしまう。
「この御言葉はこう言っているけれど、実はこれこれの解釈があるのだ」などと言って人間的な解釈を加える者は、的を外した歩みによって、どんどん救いから遠のいてしまうのだ。

御言葉はそのままが一番、混ぜ物せずにそのままいただき、日々イエス様に救いをいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:古きは死の向こう側へ(ローマ7:1-6):右クリックで保存
韓国語通訳有

ローマ7章をよく読むと、1-3節と4-6節とでは、「夫」「死んだ対象」がそれぞれ違う事が分かる。
まず1-3節に出てくる夫とは、前章の関連からすると「古き人間(ローマ6:6)」であり、この「夫」がキリストと共に十字架につけられて死んだため、私たちはその古き連れ合い(夫)から解放されている。
そして4-6章では、今度は死んだのは「私たち」となり、私たちはキリストの体を通じ、過酷な要求ばかりする夫(律法)に対して死別させられている。(ローマ7:4-6)
ローマ7章後半で学ぶが、「古き人間」と「私」とは、別物である事に注意する必要がある。

私達は2重の意味で死に明け渡されており、私たちを良くない行いばかりに仕向けてきた古き連れ添い(古き人間)は死んだため私たちは解放され、また、私たちに過酷な要求ばかりして縛ってきた夫(律法)に対しても、死別させられたのだ。

「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤャ6:14,15)

古い自分も、世も、律法も、呪いも、私たちにとっては十字架の死に明け渡され、十字架の向こう側へと、逝ってしまっているのである。
そして十字架のこちら側、私たちの側にはイエスがおられ、愛によって結ばれ、共に新しい創造として歩んで行けるのである。

私たちが既に新しい創造であるなら、それらしく歩む続けるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:誰の奴隷になるか(ローマ6:15-23):右クリックで保存
韓国語通訳有

我々は、イエス様によって罪が覆われ恵みの下にいるのだ、神は赦しの神だ、だから罪を犯し続けても問題ない、と言う者がいるが、はたしてそうだろうか。

「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」(ヘブル10:26)
罪の赦しをいただいたのに「ことさらに(口語訳、新改訳)」「故意に(新共同訳)」罪を犯し続けるのであれば、それは「神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する」行為であり、重い刑罰が待っている。(ヘブル10:29)
ヘブル書ではそのように警告しているが、ロマ書6章では、それは「罪の奴隷状態」になる事で、その結ぶ実は死であると警告している。

奴隷には主人がいて、その主人に対して自由意志は通用せず、主人の命令には好むと好まざるとに関わらず、従わざるを得ない。
私たちは、何の奴隷となるかによって、結ぶ実も違ってくる。
例えば、たばこを止めたい時にいつでも止められるなら、たばこに対しては自由だが、自由に止められない人は、たばこの奴隷状態であり、その奴隷になり続けるなら、肺ガンなど健康障害という死の実を結ぶ。
同様に「あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマ6:16)

もし罪の奴隷にあれば、ガラテヤ5:19-21の実を結び、それらは恥じるべきものであり、それらの終局は死である。(21節)
「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(22節)

私たちが留まるべきは、キリストが罪の奴隷から解放して下さったという立場である。
「 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(17,18節)
もし私たちがキリストの僕(奴隷)となるなら、カナの婚礼でイエス様に使えた僕のように(ヨハネ2章)、イエス様の密かな御技を見る事が出来るばかりでなく、イエス様が用意された極上のぶどう酒を味わう事が出来、それを人々に届けて人々にいのちを与え、喜びに満たす働きをする事が出来るのである。
 

礼拝説教メッセージ音声:債務整理の相談なら(ローマ6:9-14):右クリックで保存
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イエス様は人類の罪を、自らの体を身代わりとして死に渡す事によって、罪そのものを罰し、滅ぼして下さった。
イエス様が死なれたのはただ一度、罪に対して死んだのであり、他方、彼が生きる生命は、彼は、神に対して生きている。

「あなたがたもまた、一方で自分たちが罪に対して死んだ者である事を、他方でキリスト・イエスにおいて神に対して生きる者である事を、認めなさい。」(11節 岩波訳)

この「認めなさい」の原意は、会計用語の「仕分け」の意味で、客観的に成っている事を当てはめなさい、という事である。
すなわち、キリストを信じる信仰によって、罪に対しては「死んだ」として仕分けし、神に対しては「生きる」として仕分けなさい、という事だ。

私達がかつて重大な過ちによって莫大な債務を背負ってしまったのを、イエス様が借金を肩代わりして全て払ってくれたため、私達の貸借対照表にある罪の債務は「支払済み」として仕分けするのが、在るべき姿だ。
そんな事はない、私にはまだ怒り癖がある、怠け癖がある、などと、罪の借金が依然としてリアルな支配力を持ったままだと信じている人は、罪に対しての「死んだ」という仕分けが為されていないのである。

日本の将棋では、敵駒を取ったら自分の手駒(武具)として、好きな時に出す事が出来るが、私達の肢体を神の陣営の駒とするか、それともサタンの陣営の駒とするかは、私達の自由意志に委ねられている。(13節)
「それゆえに、罪があなたがたの死ぬべきからだを支配して、その結果、その〔からだの〕欲望にあなたがたが服従することがないようにしなさい。」(12節)

私達はかつて、自らの体を不義の武具としてサタンに捧げ、神に敵対する陣営の奴隷生活をしていたが、イエス様は私達を罪の奴隷から解放して下さった。
イエス様が自由として下さった私たちの肢体を、欲望に委ねて罪の手駒とするのではなく、イエス様に支配していただく神の武具として用いていただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:あなたは既に死んでいる(ローマ6:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有

罪が増し加わった所に恵みがさらに溢れたのなら、恵みが増すように、さらに罪の中に留まるべきだろうか?
断じてそんな事があってはならない。
イエス様が自らの尊い命を捧げつくして与えてくださった恵みを、敢えて踏みにじるような事など、して良いはずはない。

それ以前に、イエス様にあって罪に対して死んでいる私達が、敢えて罪のうちに留まり続けるなどというのは、できない。
キリストの新しいいのちが息吹かれた者は、罪の内を歩み続けていると、苦しくなるからである。

「それともあなたがたは、キリスト・イエスヘと洗礼を受けた私たちすべては、彼の死へと洗礼を受けたのだ、ということを知らないのか。」(3節)
洗礼(バプテスマ)とは浸し込むという意味で、漬物が漬け汁を染み込むように、私達にはキリストに浸しこまれ、キリストのありとあらゆる性質が染み付いている。
そればかりでなく、キリストの死にも浸しこまれて、キリストのよみがえり、キリストの新しいいのちにも結び付けられ、私達の体内、魂内、霊内にキリストが息吹かれているのだ。

それ故、私達は罪に対して死んでいるため、罪から解放されているばかりでなく、世から来る艱難や生まれながらの呪い、そして死に対してさえ、キリストにあって死んでいるのである。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

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