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メッセージ - ローマ人への手紙カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:一方的な恵み(ローマ11:1-6):右クリックで保存
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パウロは、イスラエルの頑なさの理由を、ローマ9章より解き明かして来たが、いよいよ11章で、神の深遠なご配剤を明らかにする。

「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。」(ローマ11:1)
神は、ご自分の民イスラエルを、決して見放さず、見捨てられない。
イスラエルは確かに、神の御前に悪をし続けて来た。
しかし、彼らが見捨てられ絶えるくらいならむしろ、太陽や月星海の運行の定めが取り去られるだろう(エレミヤ31:35-37)、と言われるほど、主が憐れむと定められた民は、御目に尊いのだ。

エリヤの時代、彼は神の偉大なる実業を、大勢の前で堂々と為したにもかかわらず、王の妻イゼベルは悔い改めないどころか、彼を殺そうと付けねらってきた。
イゼベルや王の心頑なさ、人々のどっちつかずさ、神に従う人のいなさに、エリヤさえ絶望しが、神は、選びの器を確かに残しておられるのだ。
「しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。」(4節)
イスラエルは神の憐れみのゆえに、滅びる事なく脈々と存続し続け、現代にまで至っている。

救いは、神様の側の一方的な恵みの故であり、私達の側の何かには拠らない。
「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ11:6)

神の愛は、一人子を与えるほどであり、御子イエス様の愛は、命を捨てるほどである。
私達は、父なる神こそ憐れみ深いお方であり、イエス様こそ主であると、感謝しつつ告白するのみである。

礼拝説教メッセージ音声:信仰は聞く事から(ローマ10:14-21):右クリックで保存
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救われる事の条件は、イエスを信じる事だ。
その前提条件として、まず福音を聞いていなければならない。
そのまた前提条件として、福音が述べ伝えられていなければならない。
「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ローマ10:14)
だからまず、福音は宣べ伝えられる必要があり、伝道はとても大切という事になる。

しかし、正しい知識の無い熱心は良くない。
まず、イエスというお方について良く知っている必要がある。
このお方は、知れば知るほど伝えたいという衝動が強くなってゆく「善いお方」であり、主から志が与えられ、遣わされなくては伝える事は出来ない。(15節)

本来、イスラエルがイエスというメシヤを受け入れ、その福音がユダヤから広がって行くはずだったが、民族としては、なんとメシヤを拒否してしまった。
「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。」(10:18)
まず、律法や預言書によって、イエスが救い主である事が予め示されていたし、このローマ書が書かれた時点でも、福音は地中海世界全体に広がっているし、何より、イエス様が活動された3年半の間、数々の証拠としての奇跡をもって、ご自身がメシヤである事は、イスラエルにおいて既に示されていた。
にもかかわらず、彼らは頑なにそれを受け入れなかった。

例えば、会社に雇われている人が、この商品を売って来るようにと言われているのに、それを聞いていながら行きもせず、自分勝手に机や椅子をピカピカに磨く事で頑張っても、上司から怒られるだけである。
同じように、イスラエルも、神様から示された救い主はイエスなのに、自分勝手な義を勝手に考え出し、それを一生懸命頑張っているだけで、救われないのである。
しかし、神様から示された通りにそのまま信じた異邦人達は、元々神の民ではなかったというのに、救われた。
その結果、イザヤの預言「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」が実現したのである。(20節)

「しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。」(21節)

神はそんな頑なな民に対しても、忍耐深く、立ち返るようにと、手を差し伸べながら待っておられる。
私達もイスラエルの罠に陥ってしまわないためには、まず聞いて、そして御心を理解するよう気をつけるべきである。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)

熱心なのは確かに大切であるが、その前に、「聞く」事から全てが始まるのだ。
御言葉をしっかり聞き、御心を理解して、その通り行えば救われ、そして豊かに祝福される。
そのような皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:口で告白する事の大切さ(ローマ10:9-13):右クリックで保存
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私達は口の結ぶ実によって満ち足り、その唇による収穫に満たされる(箴言18:20)。
その中で、最も優れた唇の実は、イエスを主とする告白である。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ10:9-10)

イエスを主とする、とは、主従関係においてイエスが主、自分は従とする事、人生の支配権を、自分から主に譲り明け渡す事である。

もし心で信じるだけであるなら、その事を知るのは自分と主しか知らないため、主に対しては義と認められるものの、世に対しては、主は関わりが無い状態である。
しかしもし口で告白するなら、主と自分のみならず、世に対して自分の主を明らかにする事となりため、救いが成就する。
心の内にある信仰が、口という境界線を越えた時、天地万物の支配者なる主との主従関係が、世に対して示され、適用され、世の諸々の呪われた仕組みから救われるのである。

ダビデは口で告白する事の達人だった。
彼があんなに神に愛され祝福されたのは、自分の困った時だけ主を告白するのではなく、困っていない時も、そればかりか、敵を自分の思いのままに出来る状況にあってさえも、裁きや支配権を自分ではなく神に明け渡す、と、部下や民の前で告白したからである。
「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)
彼が、主と自分との関係が何であるかを、これだけ徹底的に告白したからこそ、あらゆる面において祝福されたのである。

私達は口の結ぶ実によって満ち足りる。
自分に対し、友人家族に対し、仕事に対し、人生に対して、あらゆる面においてイエスが主権者である事を告白し、あらゆる面で祝福の実を豊かに刈り取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
 

礼拝説教メッセージ音声:間違った熱心(ローマ10:1-8):右クリックで保存
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間違った熱心というものがある。
「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」(ローマ10:2-3)
イスラエルの多くは、正しい知識に基づかず、救いを得なかった。
すなわち、神が提示した義は信仰によるものなのに、行いによって義を得ようという間違った熱心の空回りをしていた。

パウロ自身も、かつては間違った熱心によって教会を迫害し、神に敵対する事に熱心だった事を告白した。(ピリピ3:4-6)
彼は、自分はベニヤミンの血筋の者で、熱心なパリサイ人として行いの良さでは引けを取らない事など書いているものの、キリストイエスを知る知識の素晴らしさを知ってしまったからには、そいういった人間的な血筋や熱心は損だった、損どころか糞土のようだ、とさえ言っている。(ピリピ3:7-9)
つまるところ、私達が損をしない道、最も得する道とは、キリストを良く知る、という事である。

「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」(ローマ10:7-8)

あの人は救われるのか救われないのか、あの人は神の子かサタンの子か、といった事を、人は知りたがる。
しかし、唯一キリストだけが天に引き上げられたのだから、このお方を差し置いて、誰が天に上る上らないといった議論は、キリストを天からひき下ろす事になってしまう。
人の為に地の深みにまで下られたのは、キリストのみである。
それだから、このお方を差し置いて、誰が地に落ちる落ちないなどと議論するのは、キリストを死者から引き上げる事にもなる。
イエス様こそが天から降りてこられ、十字架につけられ、地の深みにまで下られ、そしてよみがえり、神の右に引き上げられたからこそ、私達は救われたのである。
そういうわけで、私達にとって大切なのは8節、「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」
私達が目を留めるべきは、あの人この人や自分ではなく、私達の近くにある御言葉のみであり、救い主は唯一キリストのみである事なのだ。

信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さず、このお方についての知識を御言葉によって正しく習得し、損をしない歩み、的を射た歩みをして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:この岩は、躓きとなるか?救いとなるか?(ローマ9:24-33):右クリックで保存
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頑なに悔い改めない者が、さらに頑なになって、滅びへと落ち込んで行くんで行く。
それでも神は忍耐して、彼らが悔い改め、イエスに立ち返る事を待っておられる、という事を前回学んだ。

イスラエルの民の多くは、イエスがメシヤである事を頑なに受け入れなかったが、その結果、福音は異邦人に広く伝えられ、多くの異邦人が救いへと導かれた。
異邦人の救いについてパウロは預言者の書を引用して提示している。

神の民でない者達、本来見捨てられるべき異邦人さえ、「生ける神の子供」とされるという逆転劇を、ホセアが既に預言しており(25,26節)、
また、たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても「残りの者」だけが救われる事が、イザヤによって預言されている。(27節)
イスラエルの内の救われる「残りの者」とは、つまりイエス様を信じた者達である。
もしこの残りの者がいなかったら、イスラエルといえども、ソドムやゴモラのように、とうの昔に滅ぼされていたわけである。(29節)
結局、イスラエルであろうと異邦人であろうと、共通して救われる者とは、信仰による者である。

実に皮肉であるが、義を追い求めもしなかった異邦人が救われ、義を追い求めたユダヤ人が救われなかった。
「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」(ローマ9:32)
信仰による者こそ義とされるのであるが、イスラエルはつまづきの石、すなわち、イエス様につまづいてしまった。
我々は、何かの行いをして成果を出したら救われる、という罠に陥りやすいが、神様が人に求められる事は、何かをしたりしなかったりする事ではなく、いのちなる御方イエス様を信じる事である。

今日の箇所から私たちが気をつけるべき事は、私達も心を頑なにしてはならない、という事だ。
救いの道がこれだ、と示されたなら、素直にそれに従えば良い。
その救いの道とは、何度も聞いている通り、イエス様を自分の救い主として信頼し、彼の言う通りに行う事である。
ここを離れて、自分勝手にああせよこうせよという思い込みを、頑なに握り締めているなら、救いを逃してしまうのだ。

イエス様を躓きの岩とはせず、むしろこの御方に信頼する皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:生まれる前から選ばれた(ローマ9:19-23):右クリックで保存
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神様は元々、救われる人を、その人が生まれる前から選ばれているのだろうか?
答えは、イエスである。
では神は、救いの器と、滅びの器を、おまえはあっち、おまえはこっちと、好き勝手に選別するのだろうか?
聖書を読んでいくと、救われるか滅びるかは、神の側の一方的な選びだけではなく、人の側の責任も関与している事が分かる。
「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ1:24)
もし人が、あくまで欲望のままに歩むなら、神はその人を望むままに、汚れへと引き渡されるのだ。

そもそも、この世はなぜ、滅びの器と、憐れみの器が混在するのだろうか?
マタイ13章24-30の毒麦のたとえを見ると、世という畑には、神の蒔いた良い麦と、敵(悪魔)の蒔いた毒麦が混在している事が分かる。
毒麦を巻いた張本人がサタンであり、サタンの根本的欲求は「自分が神のように高められよう」である。(イザヤ14:12-15)

神は元々、人をあわれみの器として、作られた。(創世記1章)
しかし悪しき者が蒔いた種の子孫もいて、この世は良い麦と毒麦の混在状態である。
サタンは何故赦されないのか?
それは、人は唆されて御言葉に背き、神から離れてしまったが、サタンは誰にも唆されず、自らの意志で反逆し、高き者になろうとしたからである。
そのサタンが、世の中という畑に毒麦を蒔いて行き、その毒麦が誰の目にも明らかな「毒」を結んだのであれば、当然の結果として、火に投げ込まれるのである。

神は何も、好きこのんで人間を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするわけではない。
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼ18:23)
むしろ神は、人を憐れもうとするが故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の憐れみによって、憐れもうとされたのである。

主は、偉大な寛容さをもって、忍耐しておられる。
「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」(ローマ9:22)

こういうわけで、神は徹底的に義なる御方であり、公平で正しい御方なのである。
むしろ、良い逆らう私達の方に、問題があるのである。
私たちは、神が不公平だといって、神を裁いたり計ったりするのではなく、むしろ、神が私達に一人子を賜るほどに愛し、憐れまれたことを、感謝すべきである。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:4,5)

私たちを、憐れみの器として、世界のはじまる前から愛をもって定めておられた神様に、栄光と祝福がありますように。

礼拝説教メッセージ音声:ある人を神が頑なにされる理由(ローマ9:10-18):右クリックで保存
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「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」(ローマ9:13,14)

神がエサウを憎んだのには、理由がある。
ヤコブとエサウが生まれる以前から、祝福されるのは弟ヤコブである、という選びは、確かにあった。
しかし実際は、エサウはアブラハムの子であるゆえに祝福され、400人の奴隷を抱えるほど、持ち物は有り余っていた。(創世記33:9)
では「エサウを憎んだ」とは何か。
この言葉は、旧約の最後の書、マラキ1章からの引用である。

エサウの子孫(エドム)は、選びの民であるヤコブの子孫を助けてその祝福に預かっていれば良かったのに、高慢になり、ヤコブの子孫にひどい仕打ちをした。(オバデヤ書)
つまり時系列で言えば、エサウは当初、神の祝福に与って増え広がって行った。
しかし子孫になるにつれ高慢となり、行状も悪くなって行き、だから、神はエサウを憎んだ、という順番である。
神は、選びの民を祝福する者を祝福し、呪う者を呪われる。(創世記12:3)
そして行状を改めない者に対しては、「主の日は、すべての国に近づいている。お前がしたように、お前にもされる。お前の業は、お前の頭上に返る。」(オバデヤ15節)

もう一つ、神様が約束の子を引き立てるために用いた器が、エジプトのパロである。
「聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。」(ローマ9:17)

エジプトは、ヨセフの統治に任せた結果、世界一強く豊かな国へと祝福された。
にもかかわらず、彼らが神の民にした事といえば、400年もの間奴隷としてこき使った挙句、神の民の祝福を妬んで、男の子が生まれたらナイルに投げるようにさえ指示して、虐待の限りを尽くした。
それだから神はパロの心を頑なにし、エジプトを神の栄光を現す器として、用いられたのである。
エジプトに1回、2回と災いが下るたびに、パロはかえって心頑なとなり、神の言葉を拒んで行き、結局10の災いが下った。

結局、誰の目にも明らかに、神の民は正しくエジプトは間違いである。
そして神は正しく義であり、神に言い逆らう人が不義なのである。

神は確かに人の心を頑なにされるが、人が滅びに至るのは、人の側にも責任はある。
「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ1:24)
人があくまで欲望のままに歩むなら、神はその人を、そのまま汚れへと引き渡される。

神は、何も好きこのんで、人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするわけではない。
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼ18:23)
むしろ神は、人を憐れもうとするが故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の憐れみによって、憐れもうとされたのである。

神は人に、幾度も預言者を遣わし、立ち帰れ、帰れ、と何度も促されてきたのに、イスラエルは立ち返らなかった。
それだから、イスラエルはバビロンに引き渡されたのである。

私たちは、神が不公平だといって、神を計り裁くのではなく、むしろ、神が私達に一人子を賜るほどに愛し、憐れまれたことを、感謝すべきである。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:4,5)

私たちを、憐れみの器として、世界のはじまる前から愛をもって定めておられた神様に、栄光と祝福がありますように。

礼拝説教メッセージ音声:救いを受け入れない者への神のうめき(ローマ9:1-12):右クリックで保存
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パウロはユダヤ人同胞から数多くの迫害を受け、幾度も陰謀によって陥れられたり、時には石打にさえ遭った。
それなのに彼は、同胞を思って深く悲しみ、心痛め、しかも、同胞のためになら、自分がキリストから引き離され、呪われた者となって良いとさえ願うほどだ。
彼はなぜ、そんなにもユダヤ人のためにうめくのだろう。

そのうめきは聖霊によるものであり、そして神のうめきである。
神はイスラエルを救おうと数々の預言者や、一人子イエス様さえ遣わして、救いの道を示して来たが、彼らはその救いを受け入れなかった。
イエス様も、エルサレムに登られた時、都を見て泣かれた。

パウロは8章において、世の何者も引き離すことの出来ないキリストの愛のすばらしさを説いたが、ユダヤ人達はキリストを受け入れないがために、せっかくのその素晴らしい愛と贖いを受けられないという、「大いなるもったいなさ」を嘆いている。

もちろん、ユダヤ人達がキリストを受け入れないからといって、神の約束が無効になるわけではない。
イスラエル人(アブラハムの血縁)だけが救われる、というわけではなく、御言葉の約束を信じる者こそ真にアブラハムの子孫と見なされ、救われるのである。

事実、ユダヤ人が福音を受け入れないから、その福音は世界に広まり、多くの異邦人たちが信じてアブラハムの子孫に加えられている。
神は、神の約束を信じきれずに、人間の力によって先走った結果生み出した「イシュマエル」を祝福するのではなく、神の約束を人間が受け止めた結果生まれた「イサク」を祝福するのだ。

救いが成就するのは、神の側から救いの約束が示された時、人が自由意思をもってそれに応答するなら、である。

しかし、パウロの時代のイスラエルは、神の側から差し伸べられた救いの手を、掴まなかったため、救いを逃してしまった。
同様に、この時代の日本も、神から示された救いの道を掴まず、数々の災いに遭っている。
そんな日本のために神と共にうめき、とりなし、そして約束の御言葉を自らしっかり掴んで、祝福をたくさん掴み取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:圧倒的な勝利者(ローマ8:31-39):右クリックで保存
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御父は私達全てのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたほどに、愛してくださった。(32節)
御子キリストは、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださる。(34節)
御霊は弱い私達を助け、深いうめきによって私達のためにとりなして下さる。(26節)
このように、父、子、聖霊なる神が、私たちのために執り成し、愛し、守っていて下さるのだ。
一体だれが、私たちに敵対できるだろうか。

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(8:35)
世にある限り、魂に訴える困難(艱難、苦しみ、迫害)や、肉体に訴える困難(飢え、裸、危険、剣)があるが、それらはキリストの愛から引き離す事は出来ない。
それらの内にあっても、私達はキリストにあって勝利者以上の勝利者、圧倒的な勝利者である。
それはそれら全ての訴える者どもを私達の主イエス様が打ち破り、勝利され、をして私達も勝利に連なる者とされたからである。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38,39)

ここにリストアップされているのは、私達の力ではどうにもならない被造物であるが、それらさえも、神の愛から私達を引き離すことはできない。
主は最終的に死を火の池に投げ込み、後のいのち(zoe)に移っても決してキリストの愛から離される事は無く、諸々の権威を委ねられた御使いも、後に来る竜や獣、アポリュオンなども、
また、崇高なるものも、深遠なるものも、その他のどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:想定以上の「益」(ローマ8:26-30):右クリックで保存
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あの事を祈るつもりで祈り始めたのに、別の事を祈るよう促され、何時の間にかそちらを祈っていた、あるいは、訳も分からず深いうめきが来て、涙の内に言葉にならない祈りを何時間もしていた、といった事があるだろうか。
それは“霊”(御霊)が導いておられる時だ。
「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)

御霊は、人の思いや知恵によってではなく、神様の御心によって、人を正しく探りきわめて下さる。
そのため、御霊は私達以上に私達をご存知であり、取り巻く状況がどうであるかを私達以上にご存知であり、私たちの表層意識に上らない事も、私たちが知らない事さえも探り極め、うめきつつ執り成し祈って下さるのだ。

御霊、すなわち弁護者は、永遠に、いつも、私達と一緒にいて下さる。(ヨハネ14:16)
たとい私達が、ちょっと神様には目をつぶっていて欲しいような時でも、御前に都合が悪いような時でもいつも共におられ、御父の御前で弁護していて下さる。
そればかりでなく、私達に全ての事について教えて下さり、そして、イエス様が話してくださった御言葉を思い起こさせて下さるのだ。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28節)

これは「今の状況は私の望むものではないけれど、将来きっと神様は、私の望むあの状況にして下さるだろう」というようなものではない。
神様は、私達が思う「益」よりも遥かに勝る「益」を用意していて下さる。
その「益」とは、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められ」(29節)ている事である。
つまり「御子の姿」こそが、私達の目指すべきゴールであり、全ての事を働かせて下さる事の、行き着く先である。
御子の形・・・それは、十字架と復活を通った、栄光のキリストの形であり、イエス様が世の始まる以前から持っていた極めて優れた栄光だ。

この目標に向かって、日々導かれていく皆さんでありますように。

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