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メッセージ - 使徒の働きカテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:異邦人の宦官であっても(使徒8:26-40):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ある時フィリッポスは主から詳細な指示をいただき、一人の人と出会うよう仕向けられ、彼に福音を伝えた。
フィリッポスはその他大勢に福音を伝えたが、特別詳細に記録されているのは、前回の魔術シモンと、このエチオピアの宦官だけである。
彼はエチオピア人の宦官で、女王カンダケの高官としてその全財産を管埋しており、礼拝のためにエルサレムに来て馬車で帰る途上だった。(8:27)

彼のような異邦人はエルサレム神殿に詣でても、神殿の「異邦人の庭」より先には入れない。
また、宦官であるためイスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。(申命記23:1)
そして彼は忙しい身分であり遠い国であるのに、それでも礼拝のため上り、しかも帰りの車の中でイザヤ書を朗読していた。
現代でさえ車中で書物を読めば頭が痛くなるのに、当時の舗装されていない道をサスペンションの無い馬車で走りながら、御言葉の巻物を朗読し思い巡らしていたのだ。
彼は普通のユダヤ人と比べ、礼拝するのに一体幾つのハンディキャップがあっただろう。
にもかかわらず、どれほど熱心に主を望んでいた事だろう。
これほど熱心に御言葉を求めている者に、主が報いて下さらない事が果たしてあるだろうか。

「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
なぜなら、主はこう言われる、宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。」(イザヤ56:3-5)

主を恐れる者は、異邦人だろうと宦官だろうと、主は区別されない。
彼は確かに、異邦人の庭までしか入れないという制限や区別をされていたかもしれないし、御言葉の導きをフィリッポスと会うまで誰もしてくれなかったかもしれないが、主はフィリッポスに細やかな指示を与えて遣わし、まことの救いイエスキリストへと導いて下さった。

二人が道行くうちに、水のある所まで出て、宦官は
「ここに水があります。私が洗礼を授けられるのに、なんの妨げがありましょうか」(36節)
と言うと、二人とも水の中に入って行き、フィリッポスは宦官に洗礼を授けた。

後の箇所で異邦人コルネリウス達の救いが起こるが、その時使徒達は異邦人が聖霊を受けた事に大いに驚き、それなら水のバプテスマを授けるのに何の妨げがあるだろう、と言って、水のバプテスマを施した。
当時はまだ、異邦人に水のバプテスマを施す事は、異例中の異例であった。
しかしフィリッポスはためらいもなく、水のバプテスマを施した。
異本には37節が存在し(殆どの聖書には37節が欠けている)こう書いてある。
「フィリッポスが彼に言った。あなたが真心から信じるならば、受ける事が許されます。彼が応えて言った。私はイエスキリストが神の子であると信じます。」
これこそ信仰告白である。
イエスキリストが神の子であると信じて告白する者は、誰でもバプテスマを受けられるのだ。

宦官はその後、もはやフィリッポスを見る事は無かったが、喜びながら道を行った。
イエスを信じてバプテスマを受けて生まれ変わった者は、救いの喜びが満ち溢れるのである。
魔術師シモンもバプテスマを受けたが、彼は罪の縄目に縛られ、その苦い根っこを抱えたままだった。
それはイエスを信じても、イエスを主とする事からすぐに離れてしまったからである。
救いの喜びを持続させるには、救い主イエスから離れない事。
宦官とフィリッポスは、バプテスマの直後より、お互い恐らく一度も会う事は無かった。
しかし、主イエスと繋がったからこそ、喜びに溢れているのだ。
大切なのは、誰からバプテスマを受けたかではなく、どなたと繋がり続けているか、という事である。

イエスに繋がり続け、常に喜びに満たされる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:魔術師シモン(使徒8:9-25):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

魔術師シモンに関する伝承は好奇心をそそる話が多いが、この箇所から私達は、我々にありがちな魔術師シモンの性質について見ていきたい。

現代はアニメや映画を通して魔術への興味が大いに掻き立てられているが、魔術は自分の欲望を満たす手段として暗闇の力を用いるため、福音の道とは間逆である。
聖書で言われている事は、魔術を行う者は、偶像礼拝者同様、御国を継ぐ事は出来ず(ガラテヤ5:20)行き着く所は火と硫黄の燃える池、第二の死である。(黙示録21:8)
私達の内にも「力に対する憧れ」という魔術師シモンが住んでおり、その要求する所は「人々を驚かし、自らを何か大いなる者のように言いふらす」「人々から興味を示される」(9節)である。

さて、彼自身もフィリッポスの宣教によってバプテスマを受けた。
バプテスマとは以前の自分に対しては死に、キリストにあって新しいいのちを生きる「悔い改め」であるが、以前の自分に死んでいない、悔い改めていない「形式だけのバプテスマ」を受けただけの者もいる。
彼は、バプテスマを受けた後も、興味のある事といえば力ある業や大いなる徴で、フィリッポスに付いて行く理由も徴が見たいから、自分もそれを行いたいから、であった。

そして後に魔術師シモンはペテロとヨハネに金を出して言った。
「私が手を置けば、誰でも聖霊を受けるように、そのような力を私にも授けて下さい」(19節)
ペテロはそんな彼を叱りつけ「おまえの金はおまえもろとも消えうせろ」と言った。
金など世の富によって、神の賜物を得られる訳が無いのだ。

ペテロの叱責から得られる教訓が、いくつかある。
まず神の権威、神の賜物を、金など世の物によって手に入れようとするのは悪事であり、そのような者は神の国の相続に預かる事は出来ない。
また23節に「お前が苦い胆汁と不義の縄目の中にいることが、私には見える」とある。
洗礼を受けても、苦々しい思いのままで、罪に縛られているなら、今一度、自分の中の魔術師シモンがいないかを点検した方がいい。

もう一つの見られる特徴として、自分の口で悔い改めの祈りをせず、人にさせる事である。
ペテロは22節で悔い改めと自身の口で祈る事を勧めたが、シモンが応えたのは
「あなたが私のために主に祈って下さい。言われたことが絶対に私に起こらないように」であった。

悪しき者の特徴として、決して自分の口で悔い改めをしない事が挙げられる。
イエスキリストの名によって祈れず「主の御名によって」あるいは「神さまによって」祈る場合は、すかさず「イエスの名前によって」祈る事を促すべきである。
また、口先では悔い改めているかのような言葉を並べて「イエスの名によって祈ります」までは言っても、「アーメン」だけは自分の口で言わず、人に「アーメン」を言わせる事もある。
悔い改めや信仰告白の祈りの場合、本人自身が自分の祈りにアーメンしないで他人がアーメンしてしまうと、その人自身の偽りの茶番劇に参加してしまう事になるので、本人のアーメンを確認してから皆さんもアーメンするべきである。

自分自身の唇で悔い改めをしない者は、要注意である。
悔い改めとは、人生の方向性を自分中心から180度転換し、イエス様中心の人生を歩む事であり、以前の自分には死んで、イエスキリストに生きていただく事である。

苦々しい思いや罪の束縛から解放され、キリストの全き平安の内にいる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:恵みと憐れみが追って来る(使徒8:1-8):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

サウロはステファノ殺害の日以降、教会への迫害を強めた。
彼はなぜその時以降、しつこく迫害するようになったのか。
恐らくこのステファノの最後の様を見て、よほど激しく燃え立たされるものがあったのであろう。

彼は元々神様を思う熱心さから、キリスト者達を、神に敵対する「ナザレ人の一派」なる新興の集団として迫害した。
しかし、ステファノの最後の有様は、サウロの思いを超えて、聖かつ真実な趣を醸していた。

宗教をしている人は、敬虔な宗教者らしく、愛ある人らしく、御使いのように清らかな振りをする。
そういう振りをしている人を見る時、違和感を感じるものだが、ステファノはそういう振りをしている様子は一切無く、心底、輝いていたのである。
サウロは恐らく、そんなハズは無い、絶対どこかでボロを出すはずだと思ったであろう。

そこでイエスの名の下に集まっている家々に強襲して踏み込み、そこにいた男も女も牢にぶち込んで行った。
ところが彼が暴いていく家々、ぶち込んで行く人達は、あまりにも善良だった。
彼らは日々共に集まり、パンを裂き、賛美し祈り、神殿に礼拝しに行き、多くの徴や奇跡を行い、人々から尊敬されていたのである。(使徒2:43-47)

サウロがが一人また一人と獄にぶち込んでいく度に、恐らく心が痛かったのではなかろうか。
サウロは後に、主がこのように言われたと人々に証している。
『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』
サウロは聖徒達を牢に入れる度に、とげのついた棒を蹴るような痛みを覚え、そして主はサウロ自身が痛みを感じている事もご存知だった。
イエスを主とする者たちを叩くのは痛い事である。
愛を持って兄弟姉妹を戒め、間違いから立ち直らせるのなら望ましいが、不特定多数のクリスチャンや牧師達をただ批判し貶めるだけなら、主がサウロに介入されたように、その人にも介入なさる。

サウロ他迫害者達のために教会の人々は散らされ、財産を取り上げられ、着の身着のまま追い出されてしまった。
それまでの日常生活が、ある日突然奪われてしまったわけである。
震災で着の身着のまま出て行かなくてはならなかった人達を私達は見ているため、それがどれほど困難な状況であるか、想像に難くない。
ところが聖書には、その大変さについては全く書かれておらず、むしろ、かえって良かったかのような書かれ方をしている。

4節には、行く先々で福音を言い広めたと書かれてある。
この福音のために、彼らは狙われ牢に入れられたり追い出されたりしたのではなかったか。
しかし主の霊に捕られた人間は、福音を伝えずにはいられない衝動に動かされるのだ。
彼らは確かに大変だったが、その大変さ以上に、恵みと憐れみ、慰めが付いて回り、物質的な必要の満たしも与えられたのである。

福島の教会の方々には行方不明の聖徒がいたり、ちりちりになってしまったりという困難にある状況を祈祷課題として書いたが、
その先々での生活は物質的に満たされ、逆に回りに与えているほど満たされているという事をインターネットの掲示板にて記している。
また、行く先々で主にある兄弟姉妹からのおもてなしや志しを頂き、励ましたり励まされたりして、涙が尽きない日々だという。
このように、主イエスにある者たちは、決して行き詰まる事が無く、慰めに満ち、恵みと憐れみが追って来るのである。(詩篇23)

私達も日々この福音をのべ伝えた者達のように、主の霊に満たされて、困っている兄弟姉妹のために祈り執り成して行きたい。
この終わりの時代において、いかなるときでも福音を伝える皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:暴力的な混沌の中で(使徒7:54-60):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

人々は確かにステファノの話に心刺されたのだが、刺された心の持って行き場は「悔い改め」ではなく「憎悪と殺意」であった。

この殺意に満ちた権威ある訴訟人達は、口々に叫びながら彼に殺到し、彼は多くの腕に掴まれ、殴られ、もみくちゃにされ、外に引き摺り出され、よってたかって石を投げつけられた。
そのように暴力的な混沌の中で、ステファノはどうだったか。
「ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。
それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」(使徒7:59,60)

彼がこんなにも平安に満たされつつ眠りについたのは、なぜか。

天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見つめていたからである。(55節)

世の中の人々が、あるいは呪いに満ちた被造物が、殺意に燃えて私達を取り囲む事があるかもしれない。
そういう状況でもステファノのように平安を保つには、天を見つめ、イエスを見つめる事である。
「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:39)

子供の頃この箇所を読んだ時、こんな、自意識がどこかに行ってしまっているような、あぶない人間にはなりたくないと思った事もあった。
しかし、大人になるうちに、人生の色々な経験をし、自意識がどこかに行ってしまっている、あぶない、などと評価する事で自分を保とうとする事が出来なくなる時が来て、結局、はるかに弱くてあぶない自分に気付いて、打ちのめされた。
私達は生きていく上で、人々の憎悪の的にされ、のけ者にされ、迫害に遭い、戦いに直面する時が来る。
ステファノが石に打たれている場面のように、もはや自分の力ではどうしようもない状況となった時でも、揺るがされない平安を与えてくださるのが、イエス様である。
最近、イエス様を主とするようになってから、ステファノ程ではないにしても、困難な場に置かれてもその平安が支配するようになってきた。
事実、地震の中でも、テレビを通して入ってくる恐ろしい情報を聞くにつけても、その主から来る平安は乱されていない。

あくまで自分を主に明け渡したくないと思うならそれでも良いが、そういう人達は、この日本の危機的状況に太刀打ち出来ていないのではないか。
私達の主イエス様を見つめているなら、人生のあらゆる困難に対して、平安の内に対処することが出来る。

さて、ここにサウロという人物が出てくるが、彼こそ後のパウロであり、新約聖書の大部分を書いた本人である。
彼はパリサイ人として高度の教育を受け、律法に関してはそこいらの人達以上に熱心に守っていたが、律法の言っていることが正しいと認識していながらも、守りきれない自分にみじめさを感じていた。

そんな彼がステファノの処刑に立ち会った時、衝撃を受けたのではなかろうか。
こんな殺意を持った群集に囲まれ石打に遭っているのに、なお御使いのような満ち足りた表情をして、石打をしている人達のために祈ったのだ。
それも見たところ、人間的ながんばりや、無理やりではなく、心の奥底から溢れる熱情に突き動かされて、である。
サウロは相当悔しかったのではなかろうか。
律法を守り、一生懸命神に仕えて来たはずなのに、彼自身が望んでも得ることの出来なかった聖なる性質、義なる性質を、この新興の異端集団が、ごく自然に体現している。

サウロはその後、教会を迫害する者になるが、さらにその後、彼自身が主イエスと出会い、迫害者サウロから伝道者パウロへと造り変えられた。
そして最後に、彼もステファノのように殉教するが、彼も終わりまで平安満たされていたようである。

主イエス様を見つめる者は、ステファノもパウロも、そして皆さんも、同じように平安に満たされるのである。
彼らのように、とまでは行かずとも、日々のあらゆる小さな困難や迫害において平安が保たれる。

日々、主の平安によって満たされ、終わりまで満たされたまま生を全うできる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祈ります。

礼拝説教メッセージ音声:神殿とは(使徒7:44-53):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ステファノはなぜ捕られられ、最高議会で弁明しているのかというと、偽りの証人によって「彼がモーゼと神殿に対して冒涜の言葉を吐いた」「ナザレ人イエスはこの神殿を打ち壊しモーセの慣例を変えるだろう、言うのを聞いた」という訴えが彼に対して為されたためである。
そこで彼は、神はいかにイスラエルを立ち返らせようとして来たか歴史を紐解き説明するが、その内容は聞いている者達の耳障りの良いものではなく、いかにイスラエル民族が神に逆らってきたか、という歴史であった。

今日の箇所には、荒野の幕屋から神殿に至るまでのいきさつが説明されている。
神殿の前身は荒野の幕屋で、ヨシュアの時代にこの地に持ち込まれ、ダビデが神殿を建てたいと願ったものの、建てたのはソロモンだった。

祭司長達や律法学者達は礼拝祭儀施設として神殿を大切にしているが、建物よりもっと大切にしなくてはならない事柄を、彼らは疎かにしている。
「いと高き方は人の手で造ったようなものには住まない。」(48節)
イエス様は「この神殿を壊してみよ、三日でそれを立て直す。」と言われたが、それは建物の事ではなく御体の事を言われたのであって、まことの神殿は人の手による建造物ではなく「からだ」であり、神を敬いイエスを信じる一人ひとりである。

49,50節はイザヤ66:1,2の引用であるが、そこには
「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」(イザヤ66:2後半)
と書かれてある。
主は神殿という建物や場所よりも、そこに集う礼拝者の御言葉を恐れ敬う心をご覧になる。
主は教会という建物や場所よりも、召しだされた者達がいかに霊が砕かれ、キリストに明け渡しているかを、ご覧になられる。

神殿を建てようという思いが最初に起こされたのは、ダビデであった。
彼は、神様のために幕屋ではお粗末だから、もっと立派な建物を建てたいと思ったのかもしれないが、主は
「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。」「むしろ牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした」(2サムエル7:5-8)
と言われた。

ダビデは力がついてきたから神殿を建てたいと思ったが、そのダビデを羊飼いから王へと仕立て上げ力をつけたのは、神である。
人が神のために家を建てようなどと言うのは、おこがましいのだ。
私達人間がすごいから神様がついてきたのではなく、神様が憐れみをもって選ばれたからこそ、イスラエル民族があるのである。

ステファノの説教ははじめから終わりまで、神様視点でのメッセージであった。
それに対し、神様に逆らってきた者達の視点はずっと人間中心、自分中心だった。
そのような視点だから、預言者の言う事が気に食わないと言って殺してきたし、
主の御旨に気付く事無く、預言者達が殊更に告げてきたメシヤさえも、十字架につけたのだ。

「今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。」(7:52)
ステファノはたった一人で、大勢の地位の高い人達を糾弾した。
結局その時代の人達は悔い改めるに至らず、その後、ローマ兵に囲まれ滅ぼされてしまった。
私達は彼らのように、自分中心に御言葉を塞いで心頑なにしてはならない。
御言葉を聞く時は、私達に都合が悪かろうと、耳障りが良くなかろうと、謙虚に受け入れるべきである。

御言葉をそのまま受け入れる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します。

礼拝説教メッセージ音声:主の名を呼ぶ者は救われる(使徒2:17-19):右クリックで保存

全ての聖徒達が最も注視すべきは、終末の徴や災害ではなく、主イエスの御名である。

地震の時、教会にいた4人は最初はイエスの名を求めて助けを求め、御言葉を宣言していたが、そのうち怒りが込み上げて来て、地震そのものに対して叱るようになりだしたら、収まって来た。
聖徒達の経営するお店も、耐震の措置は全くしていなかったのに奇跡的に物品は乱れずキレイに守られていた。
他の店を覗いて見ると物品がごちゃごちゃになっていたのに、被害はゆず茶ひと瓶だったり、倒れたのはハイヒールひとつだけだったり。
その後、皆で韓国料理屋に行ったが、その場所には御使いが一体何人陣を張り巡らしてガードしていたのだろう、という安心感があった。
聖徒達は、守られているのである。

時代は終りに入っており、天と地で大いなるしるしがこれからも現われる。
人々はそれに驚き、不安になるが、主の御名を呼び求める者は救われる。

世に来ようとしている終末において救われ守られる者とは、主の名を否まない者、イエスの御言葉を忍耐して守る者である。(黙示録3:8-10)

私達の言葉は地上で繋ぐなら天において繋がれる。

『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。
わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。
主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。
主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(使徒2:17-19)

終わりの時代、しもべにもはしためにも私の霊を注ぐ、と預言されている。
私達には、主の霊が注がれて、守られている。
主イエスの名を否まない者、御言葉を忍耐して守る者には、実際に体が守られ、またたとえ命が奪われるような場面になっても、ステファノのように、心は乱されること無く、それどころか、迫害する者の為に取り成し祈るほどに平安に満たされるのである。

礼拝説教メッセージ音声:恥の歴史:モーセ(使徒7:17-43):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ステファノが訴えられている理由の一つは「モーセの教えを覆そうとしている」である。
彼はモーセについて詳しく説明しているが、彼の語るモーセの歴史は、主の御前にユダヤ人にとって不利な内容であった。

モーセには実に多くの徴や不思議、明らかな神様のわざと、力ある言葉があったが、人々は受け入れなかった。
27節「誰がお前を立てて我らの指導者や裁判官にしたのか。」
この言葉は、ユダヤ人がモーセに語った言葉だが、イエス様にも語った。

そのモーセは、イエスの雛形である。
イエス様も、諸々の徴を通してお生まれになり、多くの幼子が殺された中から救い出され、エジプトで一時期匿われ、そこから抜け出して来た。
イエス様は、言葉にもわざにも力があり、明らかな奇跡でもって神から遣わされた者である事を証明したにもかかわらず、人々は彼を退けた。

モーセはイスラエルに預言して言った。
「神は私を立てられたように、あなたたちの兄弟の中から、一人の頚言者を立てられるであろう」(37節)
ユダヤ教の人たちは現代でも、モーセの預言したこの預言者を待ち望んでいるが、それはイエスであり、彼こそ天と地の間に立ち、御父と私達人間の間に立つ中保者である。

モーセは契約の石板をいただいた時、群集は好き勝手に、手で作った偶像を礼拝し、楽しんでいた。
そこで神様は彼らに背を向け、好き勝手のままにして、滅びるままにさせた。

このように、ステファノは、ユダヤ人は尽く神の立てられた預言者に逆らって来た事を証言し、
彼らが誇りにしてきた自分達の「言い伝え」が、いかに好き勝手なもので、荒野で民が作った偶像と同じであるかという事を、明らかにした。

一見するとステファノは、大勢対一で告発され、罪定めされているかのように見えるが、しかし彼は歴史と御言葉を盾に、天においては、逆に告発し罪定めしているのである。

私達も真理を盾に訴えなくてはならない状況がある。
もちろんステファノのように、大勢対一ではないかもしれないし、命の危険がある場面ではないかもしれない。
彼が真理を語った報酬は死であったが、我々の場合はそうではなく、改心と感謝の涙に溢れているかもしれない。

いずれの状況であっても、御言葉を盾に、御霊に満たされ、力と知恵に満ちた言葉で語る皆さんであります様に。
イエスの名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:恥の歴史:アブラハム〜ヨセフ(使徒7:1-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ステファノが訴えられた内容は、彼がモーセと神に冒涜の言葉を吐き、イエスが神殿を壊しモーセの慣例を変えると言っていた、というものである。
それに対してステファノの弁明が始まったが、それは唐突に、イスラエル歴史の最も父祖であるアブラハムの話からだった。

彼の歴史観は、人間視点ではなく神視点であり、訴える者達が当然のように持っていた自民族の栄光の歴史ではなく、神に対する反逆の、恥の歴史であった。
彼らは律法や神殿を誇りとしているが、いかに神様の示された約束や救い、憐れみから反逆して来たか。

アブラハムが義とされた理由は、信仰である。
彼は行き先が分からないのに、神様の言う通り出て行き、まだ子孫も約束の土地が一幅も与えられていない時に、子孫にこの土地を受け継がせようという約束が与えられ、それを信じた。

また、アブラハムに割礼の契約が与えられた。
割礼とは肉体の一部を切り取り、神の民という印を残すものであるが「肉に頼らない」という意味もあり、また、神様への感覚が開かれているという意味もある(51節)。
つまり、神の民である所以は、神様の約束を信仰を持って受け取る事、肉に拠り頼まないという事、そして神様に対して感覚が開いた状態である事である。

しかし彼でさえ約束を信じられない時があった。
割礼の契約は彼が99歳の時に与えられたが、その前に、約束を待ちきれず、肉の力でイシュマエルを生んでしまい、割礼の契約が与えられた時、イシュマエルが祝福を受けますように、と告白している。
祝福の約束は、まだ産まれていもいないイサクに対するものだったが、神はアブラハムの不信仰も赦し、憐れみ、イサクを生ませて下さった。
イサクが産まれた時、8日目に約束どおり割礼を受けさせた。

そこから時代は飛び、イサクの子やコブの子12人の族長の話になるが、真っ先に出た話題は、族長達がヨセフを妬んでエジプトへ売った話であった。

ここで見るべき特徴は、妬みである。
ステファノを捕らえた最たる動機も、妬みだ。
ステファノのメッセージは「兄弟達、父たちよ、」で始まり、族長達は罪の無い兄弟を妬みによって売り飛ばしたが、同じように兄弟達あなた方も「妬んで」訴えるのか、と促している。

ヨセフは苦難を受けたが、神様は恵みを施して下さった。
結局神様はヨセフを通して12部族もヤコブも救って下さり、族長達の悪い行いさえも益と変えて下さった。

イスラエル民族の歴史は、罪の故に自業自得の苦しみに陥っても、神様はその苦難から救い出すという繰り返しである。
訴えた者達は、自民族を誇って来たが、実は誇れる点は、何も無いのだ。
私達は罪人であるにも関わらず、それでも恵みによって救われている者達である。

神がアブラハムを義と認めたのは、彼に何か優れた所があるからではなく、彼が「信じた」からである。
神の民たる印は割礼だが、それは肉の力に頼らない事、神に対して耳と心が開かれているという事である。

信仰によるアブラハムの子孫である皆さんも、肉に頼らず、信仰によって神様と関わり、神様に対しての感覚が開かれた者達でありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:御使いのような表情(使徒6:8-15):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ステファノは信仰と聖霊に満ちた人で、民の間で大いに徴と奇跡を行っていた。
その彼に、外国のいわゆる会堂に属するユダヤ人達が議論を仕掛けたが、知恵と聖霊によって語ったため、太刀打ち出来なかった。
そこで彼らは人々をそそのかし、モーセや神に冒涜の言葉を吐いた、と言って最高法院に引き立てて行った。
もはやステファノに対しては、人の知識や経験では太刀打ちできないため、彼のように聖霊に満たされたキリスト者を黙らせるには、もはや偽りの証人を立てて捕らえるしか無いのである。

使徒の働きの学びをしてから、最高法院はすっかりお馴染みになってしまった。
ペテロほか使徒達は既に2回立たされたし、主イエス様も引っ立てられて行った場所で、ステファノも捕らえられて行った。

彼は最高法院にて偉い権威ある人達に囲まれ、その中に一人立たされた。
偽りの証人によって訴えが為された時、最高法院に集っていた憎悪の群集は彼に目を注ぐが、彼の顔は恐怖に怯えるどころか、逆に、御使いのように輝いた顔をしていた。
そのような状況において御使いのような表情になれるのは、必死の取り繕いではなく、聖霊によるものである。

主の証をする時は、御霊と知恵に満たされていないと、ボロが出てしまう。
人間の知恵や自分の栄誉のために福音を伝えるなら、こういった状況では対応出来ないし、御使いのような表情を取り繕おうとしても、胡散臭い顔になるのである。

イエス様は予めこう言われた。
「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く、、、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。」(ルカ21:12-15)
私達はそのような状況において、がんばる必要は全く無い。
イエス様ご自身が口の言葉を与えてくださるから。

使徒7章は、非常に長いステファノのメッセージになっている。
アブラハムから始まり、モーセ、ダビデまでの歴史であるが、それは最高法院の者達が好きな栄光の歴史ではなく、父祖達が預言者や神の立てた者達に逆らってきた、恥の歴史であった。
ステファノは、メッセージを語ったがゆえに殺される。
このメッセージによって、悔い改めやリバイバルが起きる事は一切なく、一人残らず彼に歯軋りし、そして彼を殺すのである。

全ての義人たちの血はこの時代に降りかかる、とイエスは言った。
その通り、ステファノを殺した者達の時代のすぐ後に、エルサレムは包囲され壊滅し、義人達の血が降りかかった。

ルカ21:17-19「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

世のどんな荒波、どんな歯軋り、悪意、偽りに晒されても、霊肉ともに髪の毛一本すら乱されない程の御霊の満たしを与えられますように。
イエス様の名前によって祝福します!

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礼拝説教メッセージ音声:12弟子の非道い(?)決議(使徒6:1-7):右クリックで保存
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弟子達が増えるにつれ、教会にある問題が持ち上がった。
古今東西、教会には人間が集まる故、問題は付き物であるが、初代教会においてどのように問題を解決して行ったのか、またどのような事に優先順位を置くべきなのか、この箇所から多くを学ぶことが出来る。

問題とは、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだ、というものであった。

人は何かと文化や言葉が違う者を理解するのが難しいものだが、当時の彼らにはそればかりでなく深刻な問題を生みやすい要素があった。

ギリシア語を話すユダヤ人とは、ローマ所属州の各地に住んでいる者達である。
なぜ外国に住んでいるのか、色々な理由があった。
ユダヤ近辺で商売するよりも、外国でするほうが儲かって裕福な生活が出来たり、ユダヤの堅苦しい文化を出てヘレニズム文化という当時としてはハイカラな文化を求めて行ったり、あるいは外国人と結婚してその地に住み着いている、といった理由である。

民族意識が強いヘブライ語を話すユダヤ人からすれば、そのような者達は神の民を捨てた、軽薄な、いけ好かない者であり、
ギリシヤ語を使うユダヤ人たちからすれば、彼らは頭の固い、古臭い、ダサい者達であった。
あまり仲がよろしくない集団が混ざり合っていたわけである。
そして、一方のやもめ、援助すべき弱者が、見過ごしにされている、というのだ。

人権意識の進んだ、上から下までクレーム対応第一の現代において、このような事が起こるとすれば、真っ先に取り組んで解決したい問題ではある。
12弟子はどのように問題を解決して行っただろうか。

12弟子が真っ先に語った言葉は、弱者を大切にしましょうとか、民族や文化の差別の無くしましょうとか、皆さんもっと仲良くしましょう、といった、現代人なら真っ先に考え付くようなものは全く無く、「神の言葉をほうって置いて、食事の奉仕をするのは良くない」である。
さらに3,4節、
「そこで兄弟たちよ、霊と知恵に満ちた評判の良い人達を、7人探し出してもらいたい。その人達にこの役割を任せよう。
他方、私達は祈りと身言葉の奉仕に専念しよう。」
邪険な見方をすれば、この12人は、この問題を別の人達に丸投げし、私達は別の事に専念しよう、とも見れる。
ヒューマニズム主義の人達からすれば、ずいぶんひどい対応に見える。
しかし、教会という所は、ヒューマニズムという人間中心で動くところではなく、御言葉が中心となって動く所である。

ここで12人が提案した、7人の選別基準は何であろうか。

食卓の奉仕なので、現代の教会であれば、栄養や調理のプロ、弱い立場へ配慮が出来る人、諍いやクレーム処理するのに長けた口達者な人、など、その道のプロを選ぶ所である。
ところが選別基準は、3節「霊と知恵に満ちた、評判の良い人」である。
社会的地位や能力の高さがあっても、霊と知恵に満ちていない人は、落とされるのである。
また評判の良い人でなくてはならない。
教会という閉じた世界では通用しても、外の社会で通用しないような者は、落とされるのである。
これこそ、教会の働き人を選ぶべき基準である。

この12人が、重大問題を差し置いて専念したかった事は、何だったか。

それは、4節「祈りと御言葉の奉仕」である。
人権問題は誰かに委ねて自分は祈りと御言葉の奉仕の方を優先するのは、世の考え方では「ひどい」かもしれないが、しかしそれがエクレシアにおける要職者の取るべき選択である。

エクレシアの主だった人達が祈りと御言葉の奉仕に専念し、霊と知恵に満ちた評判の良い人々がその奉仕に当たった結果、どうなったか。

7節「神の言葉は広まっていき、弟子達の数は猛烈に広がって行った。」
そして、使徒達を迫害していた祭司達さえも仲間に加えられていった。

今日、教会においてこのような増え広がりが無い原因は、教会で要職にある人々が、祈りや御言葉よりもヒューマニズムを優先させたり、
働き人として、霊や知恵に満ちていない者、社会で評判の良くない者が就いたりしているからである。

私達が評価すべきは、霊と知恵に満ち、そしてその実である評判の良い人である。
優先すべきは、祈りと御言葉の奉仕である。
これは教会においてだけでなく、家庭においてもこの優先順位を守るなら、大いに祝福される。

祈りと御言葉に専念し、大いに祝福される皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

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