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メッセージ - 使徒の働きカテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:初代教会の状況(使徒2:42-47):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ペンテコステの日、ペテロのメッセージによって3千人ばかりの人たちが交わりに加えられた。
彼ら初代教会の者達は何に熱心であったか、42節と46節に記されている。

1、使徒達の教え
使徒達の教えとは、彼らの口を通して語られる御言葉であり、新約聖書の大部分はそれによって成り立っている。
彼らは日々、御言葉に対して熱心だった。

2、交わり
交わり(コイノニア)の真ん中にはイエスキリストがいて下さる故、その集まりは実に麗しく楽しいものである。
信じている者たちお互いの不足の補い合いといった機能的な事ばかりでなく、主に在って心をもひとつとする行為である。

3、パン裂き
彼らは、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にしていた。
たかが食事、されど食事、わざわざ書かれてあるからには「共に食す」のは重要である。
ルカは聖餐も同等の意味で使っており、エルサレム教会においては聖餐も愛さんも同じであったようである。

4、祈り
彼らは日々熱心に祈っていたため、奇跡としるしが行われ、それによって、皆の者に恐れの念が生じた。

5、毎日一致して神殿に通い、賛美していた
神殿に行くのは普通、安息日か年毎の祭りの時のみであるが、彼らは熱心に、毎日通い賛美していたのは、主を身近に感じていたからであり、主を愛していたからである。
主の交わりは何も神殿、教会でしかできないというものではなく、各々の家々でパンを裂き、食事を共にし、礼拝ができるのである。


信じた者たちは一切の持ち物を共有し、貧しい者が誰一人いなかった。
共有していたのは物質的な物に限らず、精神的な面でも同じで、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と共に泣いていた。
それは一人の喜びが全体の喜び、一人の悲しみが全体の悲しみであり、コイノニヤの一人ひとりこそ、キリストの各器官だからである。

彼らはそのような毎日を送っていたため、全ての民に好意を持たれていた。
この集団が周囲から孤立している集団ではなかったのは、当然、彼らが出て行って好意をもたれる事をしたからである。
私達の交わりは、自分たちだけが清らかであったり、周りから断絶するものではない。

人々をこの交わりに加えたいから伝道を頑張る、というのは、順番違いである。
主が麗しいから、自然と交わりやパン裂き等を為し、主が真ん中におられる魅力につかれた者達がコイノニヤに加えられるである。
それはまさに、主がなさる事である。(47節)

初代教会の者達がしていたように、御言葉、交わり、パン裂き、祈り、礼拝への集い、賛美を為し、主ご自身が働かれるのをたくさん見るみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:悔い改め、聖霊をいただく(使徒2:36-41):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ペテロのメッセージは、神がキリストとし主とされたイエス様を、「あなたたちが十字架につけた」と宣言して終わる。
そこにいた人達は、色々な国出身で、イエス様が十字架に架かったその時、むしろイスラエルにいなかった者の方が多かったはずである。
それなのに何故「あなた達が十字架につけた」と言ったのか。
イエス様を十字架につけた者とは、イエス様が王様になって欲しくない者、自分の好き勝手に生きたいと願う者の事であり、それは私達にも当てはまる。
3千人ほどの者達はそのメッセージで心抉られ、「どうしたら良いか」とペテロ達に聞いた時、与えられた言葉は「悔い改めなさい」であった。

「悔い改め」の原語「メタノイヤー」は人生を180度方向転換する「回心」の意味だが、ルカやマタイがこの言葉を使う場合、「悔いる」というニュアンスを同時に込める事も

多い。
イエス様の十字架を聞く時、心抉られ、悔いる体験は、深く感覚として主を知るために貴重な経験である。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、それは今までの自分を死に明け渡し、キリストへと道を整える役割を果たしていた。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、新しいいのちに生まれ変わり、イエス様と同様、死に束縛される事は無く、罪の赦しに至り、そして賜物として聖霊をいただくバプ

テスマである。

ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」と薦めた。
生まれながらの人として、この世の霊から邪悪な影響を受けていた者達が、その束縛から解放され、イエス様の愛のご支配へと移る事が出来るのだ。
この古い創造は悪しき者の手に委ねられており、全ての富も悪しき者の支配下にあるが、新しく生まれ変わった者は、新しいいのちの君なるキリストの支配下に置かれる為、

悪しき者は手を触れる事ができない。

さて、この時3千人が悔い改めたが、必ずしもこのように大成功するとは限らず、悔い改めとは逆の反応を示す者達もいる。(使徒4:16,17)
ステパノは、素晴らしいメッセージをしたにもかかわらず、誰一人、悔い改めに至らないどころか、憎悪し、ステパノは命を奪われる事になる。
しかし、彼は御使いのように輝いた表情で、自分に向かって石を投げる群集を執り成しつつ、眠りに入った。
そのように、状況とは全く裏腹の安らかな眠りに入ったのは、聖霊に満たされていた故である。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、賜物として聖霊をいただく事ができ、死の恐怖や他人の罪からも解放されるのである。

聖霊に導かれる私達は、どのような人生となるのか、どのような最後を遂げるのかは心配するには及ばない。
状況如何に関わらず、安らかに導かれ、安らかに眠りに入るからである。
私達は頑なになる者ではなく、打ち砕かれ、悔い改め、信じる者としてキリストの内にバプテスマされ(浸し込まれ)、邪悪な世代から救い出され、聖霊を頂いて安らかに導

かれていく者達である。
そのような皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:死に束縛されない主(使徒2:25-35):右クリックで保存

韓国語通訳有 한국어예배

ペンテコステのペテロ説教の前半は、起きている出来事についてヨエル書から説き明かし、そして今日の箇所である説教後半部分は、イエスは死に束縛されない、永遠に生きておられるお方である事を、詩篇を元に説き明かしている。

主は天に上げられて以来、神様の右の座に着座された。
ダビデはいつも主を目の前に置いていたため、心は楽しみ、喜び、希望のうちに生きていた。
彼は預言者であったため、彼の子孫をとこしえに王座に着かせる事を示されていた。
私たちも同じように、既に挙げられ御父の右の座から統べ治めておられる主の守りの内に、楽しみ、喜び、希望の内に生きていくのである。

「主はわが主に言われた、『私の右に座せ、私がお前の敵をお前の足下に据えるまで』」(使徒2:34)
この箇所は詩篇110編からの引用である。

なぜダビデは、その子孫であるキリストを主と呼んでいるか。
それはキリストこそダビデよりはるかに優れて偉大な王であり、メルギゼデクに等しい永遠の祭司であり、死に束縛されない、とこしえに生きておられるお方だからである。

キリストは敵であるサタンも、死をも、永遠に足の下に踏みつける事になる。
ダビデは死に、私たちもいずれ第一の死が訪れるが、キリストは死とハデスを滅ぼし、硫黄の燃える池に投げ込まれる。
これが第2の死であるが、キリストにある私たちには、第2の死はむしろ救いの時である。
信仰の子孫である私たちも、ダビデやキリストとともに王座に着座し、とこしえに統べ治めるのである。

ペテロは福音を告げ知らせる者となり、それを聞いた者達はそれを世界中に告げ知らせ、そして後には、私たちにも届いた。
福音とは、勝利のよき知らせである。
何に対しての勝利か?
それは死に対して、サタンに対してである。
私たちも、死に対し、サタンに対しての勝利を告げ知らせる者達である。

ペテロように勝利の良き知らせを伝え、死に、サタンに勝利した者として相応しく、多くの分捕りをして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:あのペテロさえも(使徒2:12-24):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

聖霊のみわざを見た大勢の人達が驚き惑っていたところ、ペテロが立ち上がり、大胆に語り始めた。

いつも一言多かったり、とんちんかんな事を言ったり、素晴らしい告白をしたすぐ後に「サタン」呼ばわりされたり、裏切らないと言ったその日に裏切ったりした、あのペテ

ロが、大勢の前で、堂々と、御言葉を引用して説教し、人々を悔い改めに導いたのだ。
バルヨナ(人の子)シモンには、とうていありえないわざである。

彼は霊に促された(14節)からこそ、このような事ができたのだ。
霊に促されてしまったら、人間業ではないわざを、せざるを得ない形でしてしまうのである。

見ていた人達の中には、あざ笑って、酒に酔っているのだ言った者もいたが、ペテロは朝だから酒に酔っているのではないと釈明した。
そもそも、起こった出来事を見れば酒を飲んでではない事は明らかである。
彼らは風の大音響のために集まったのだし、色々な国の言葉を一瞬で身に付ける事も出来ないし、神様のおおいなるみわざは酔っ払って話せる事ではない。
ペテロはむりそ、大いなる奇跡よりも、ナザレ人イエスというお方について時間を割いて丁寧にメッセージしている。

ペテロはまず、預言者ヨエルの言葉を引用し、この出来事は今の終りの日に神が全ての人達に霊を注いだ結果だと語った。

あらゆる世代の者達も、身分の高い低いも問わず、霊が注がれる。
息子や娘達、つまり、当時は数にも数えてもらえなかったような幼い者達さえ、神の言葉を預かる者となる。
若者達は霊が注がれれば幻を見、希望とビジョンを持って行動する事ができる。
また老人さえ夢を見、歳をとっても将来に対する夢と希望が持てるようになる。

ヨエル書では続いて、天における大いなる徴について記されており、主題は「主の名を呼ぶ者は全て救われる」という事である。
すなわち、ペテロの説教の主題は、その「主」イエスである。
主は数々のしるしを伴って、ご自身が神の子である事を示されたのだ。

今の時代、ヨエル書に出てくるようなしるしが多く現れているが、私達が伝えるべきは、こうした天のしるしではなく「主イエス」である。

主は確かに生きておられ、あの臆病でそそっかしいペテロも大胆な説教者に変えられた。
「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうし

て聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)
この終りの時代、聖霊が豊かに与えられ、イエスというお方を大いに伝える皆さんでありますように、イエスの名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:ペンテコステ(使徒2:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

五旬節(ペンテコステ)の日、主イエス様がかねて約束されていた聖霊の満たしが実現した。

この日は、過越し祭の安息日(初穂の祭りの日、主が甦られた日)の翌日から50日目に行われる「七週祭」と言われている収穫祭である。(出34:22)
初穂の祭りはイエス様が甦られた日であり、いわば内密な、プライベートな収穫の現われであるのに対し、七週祭はいわば公に収穫を感謝する祭りである。
そういうわけでこの日は各地に散らばっていたユダヤ人や改宗者がエルサレムに集まっており、多くの人達がこの徴を見た。

聖霊に「満たされ」とあるが、ここで使われている原語は「プレソー」、機能的な、公な満たしである。
聖霊充満にはもう一種類あり、原語は「プレロー」、プライベートな、本質的な満たしの意味がある。
主が復活された日、弟子達は「聖霊を受けよ」と主に息を吹きかけられて聖霊を受けた。
目に見えるしるしの形では現れていなかったが、その時、既に本質的な満たしを受けたのである。

皆さんは、目に見える形で聖霊の徴が現れた経験は、あるだろうか。
聖霊の顕著な現われの経験が自分には無い、と気にしている方はいるが、イエス様を信じた時点で、既に聖霊に満たされ(プレロー)ているのである。
誰でも聖霊によるのでなければイエスは主であると告白しない、と書かれてあるからである。

さてこの日、大音響、振動、火のような舌という形で、公な形で聖霊の現れがあった。

火のような舌が弟子達一人一人の上に留まった時、「異なる言葉」、すなわち自分由来ではない言葉で、神様の大いなるわざを述べだした。
そのような不思議が現れるのは、ひとえに神の国の大いなるわざを人々が聞くためであり、その人自身が特段優れているからではないし、その人に栄光が返されるためでもない。
神様の大いなるわざを述べようとする意思があって、神様のことばを必要としている人の前に立つなら、誰にでも起こりうる。

そもそも、なぜ人々の言葉は違い、また相手の思いや意図、感情を理解する事が出来ないのだろうか。
それは、遥か昔に起きた、神様の呪いによってである。
当時人々は一つの思い、一つの言葉を用いて高ぶり、天に届こうとする塔を建てようとしたため、神様が言葉を混乱させたのである。

このペンテコステの日、その呪いの逆が起きた。
それぞれの言葉で弟子達が語る事ができたのは、「神様の大いなるわざを述べるため」であり、その動機であれば、言葉における呪いは適用されなくなるのである。
この教会にはたまに日本語・韓国語が全くわからない中国の姉妹達が来るが、なぜ彼女達は来るのか。
それは、たとえ言語が通じなくとも、まことの言葉なる「イエスキリスト」が通じるからである。
何も、異国の言語だけではなく、他人の隠れた思いや感情も判る現われもある。

聖霊の満たしに徴が起こるのは、神様の大いなるわざが現れるためである。
神様に栄光が無い徴は、かえって起こらないほうがよい。
なぜなら、その人にとって逆に災いになってしまうからである。

神様の栄光のために、人々に届く形でキリストを伝えられる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:マッテヤ(使徒1:15-26):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

イエス様が天に挙げられた時、キリストを信じる者達は120人ばかりの群れだった。
結構な人数にも見えるが、使徒行伝を読み進めて行くうちにその人数はさらに膨らんで行き、当時はユダヤ一地方の集まりだったが、今ではその集まりは全世界に広がっている。

本日の箇所でペテロは、ユダについて語り、彼が元々どのような務めがあり、どのように脱落し、彼の亡き今、その職を他の人に継がせたい、という事を語った。

ユダは使徒のうちに数えられ、奉仕の分け前を「くじで」受けて(岩波訳)おり、イエス様も「わたしがあなたがたを選んだのではないか」と言っているため、この職は自らなるものではなく、主から選ばれ与えられるものである。
私達が神に愛され、呼び出され、任命されたのである。
私達から神を愛したのでもなく、聖なる務めに自ら就いたのでもない。

しかしユダは、良くないやり方で報酬を手に入れ、どういう経緯でかは判らないが尋常でない死に方をし、その事は有名になってしまった。彼は召されたが、聖なる職権を乱用し、不正な手段で得るべきではない報酬を得、そして、その報酬の真ん中へまっ逆さまに落ちて、粉々になってしまった。
このような形で最後を遂げたり、有名にはなりたくないものである。

ペテロは、ユダが「はらわたが飛び散った」云々と言ったが、果たしてそう言える口なのだろうか。
ペテロは確かに裏切ったが、誰にも咎められなかったのは、他の弟子達も同様一人残らず裏切ったのであり、そして、悔い改めたからである。
ペテロは聖徒達の交わりに復帰し、イエス様に聖霊を息吹かれ、心のわだかまりも復活の主ご自身に取り扱ってもらった。

使徒信条は「聖なる教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのち」の順番で続く。
聖徒の交わりの中にいれば、赦しがあり、よみがえりがあり、とこしえのちのちへ入る事が出来る。それだから、教会における聖徒の「交わり」は大切なのである。

ユダが脱落したため、彼の受け持っていた職を、他の者に継がせなくてはならなかった。

使徒職にふさわしい者とは、ペテロが示している通り、第一に「ヨハネの洗礼の時から始めて、私たちのもとから挙げられた日に至るまで、共にいた人々」であり、二つ目として「よみがえりの証人」である。(22節)
つまり使徒たる条件は、イエス様がどのようなお方であり、どのような事をなされたのか、という事を体験し、そして、彼が死人の中から復活した事を証言する者である。

くじはマッテヤという人物に当たった。

彼はこの箇所にしか登場しないため、どのような人物であるのかは分からないが、彼がどのような人物であったかと議論する必要は、全く無い。
なぜなら、イエス様の証人である私達こそが、マッテヤだからである。

私達もマッテヤ同様、脱落したイスカリオテ・ユダの不足分を補い、イエスが死者の中から復活して今生きており、その彼はどういうお方であるかという事を、伝える者達である。
同様に、脱落して行ったユダも歴史上の一人物とは限らず、もし神に選ばれた聖なる務めを軽んじ、不正な利益を得ようとするならば、その者はユダと同様であり、聖なる務めは剥奪され、自らの欲望へまっさかさまに落ち込んで行き、他の者がその務めの跡を継ぐのである。

マッテヤのように、立派な証人となる事が出来る皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:なぜ天を仰いで立っているのか(使徒1:9-14):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

弟子達の他、イエス様の兄弟達や、いつも離れずに共にいた女達もこの場所におり、彼らが見ている前で、主は天に上げられた。
彼らは約束された聖霊を受ける時までの暫くの間、共に集まり、アッパルーム(屋上の間)にて熱心な祈りを捧げる事になる。

イエス様は両手を挙げて弟子達を祝福し、その祝福している姿のままに離れて行き天に運び上げられて行った。(ルカ24:50-52)
そこに二人の白い衣を着た人達が現れ、語った。
白い衣を着た人達は恐らく御使いであろう。

御使いが現れるからには重要な場面であるので、彼らの語った言葉を詳しく見たい。

「ガラリヤの人たちよ」

ガラリヤ地方は異邦人と混合する、蔑まれるべき田舎の地方であった。
弟子達は、人々からは蔑みの対象として呼ばれる「ガリラヤの人達」かもしれないが「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」(イザヤ8:23新共同訳、口語訳9:1)
ガリラヤの人達は、人々から虐げられ、自分で自分さえも虐げられるに相応しいと思っていたかもしれない。
闇の中を歩んでいたかもしれないし、死の陰の地に住んでいたかもしれない。
しかし、そんな彼らが、栄光を受けるのだ。
なぜなら、ひとりのみどりごが、彼らの為に与えられるからである。(イザヤ9章)

弟子達はとても喜べる状況ではなかったが、それでも彼らは喜んだ。
「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)が、世の終りまで、決して離れる事無くいつも共におられると約束されたからである。
私達もこのお方にあって、大いによろこび、楽しみを得る事ができる。

「なぜ天を仰いで立っているのか。」

現代においても、ある人達は再臨を待ち望み、山の頂上で待っていたようであるが、そんな事をしていたらこの御使い達に「なぜ天を仰いでいるのか」と叱られるであろう。
私達は、雲の向こうに見えなくなったイエスを期待して、天を見上げて立っているべきではないし、口を開けて木の実が落ちるのを待つ者のように、目に見える徴や奇跡を期待して待っているべきでもない。
それぞれの場所、それぞれの日常においてしっかりと根ざし、共に集まり、熱心に祈っているべきである。

「イエスは、天に昇るのをあなたたちが見たのと同じ有様で、やって来るであろう」

この事は、何も再臨の時に限った事ではない。
信じる者達全てに、今も、祝福の姿勢のまま現れて下さる。

目に見える主の現われや、目に見える徴・奇跡が来るのを天をあおいで待つのではなく、日常生活の中で熱心に祈り、一致し、集まるみなさんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:聖霊を受ける理由(使徒1:3-8):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

主は復活の後、十字架に釘付けられた跡をお示しになり、共に食事をされ、40日にわたり、ご自身が生きておられる事を弟子達に示され、神の王国に関する事を語った。
そして、聖霊によってバプテスマを受けるまでエルサレムから離れないでいる事を命じられた。

福音の根幹とは、主イエス様が罪の為に死なれ、十字架につけられ、葬られ、3日目によみがえられた事であり、それは主を信じる者が、死と罪から救われるためである。

弟子達は、今こそイスラエルのために王国を復興されるのですか、と、彼ら

が切に願っている事を聞いたが、主は、その事は知る権利は無いと言われる。
彼らが望んでいた事は、支配される側から支配する側になり、権力を振るう事であったが、天の父が望んでおられる事ははるかに優れ良い事であった。
救いとは、この世において成功や富の獲得、権威を受けるといった事ではな

く「イエス様の名による罪の悔い改め」である。

例えこの世の支配者となり、全世界を手に入れる事ができたとしても、明日

死んでしまってはどうしようもないし、罪を持ったまま全世界を支配する事になったとしたら、全世界こそ災いである。
だから、死と蘇りと、罪の赦しが必要なのである。

イエス様はエルサレムから離れないで、父の約束を待つように言われた。
父の約束とは、聖霊によってバプテスマを受ける(聖霊の内に浸し込まれる)事。
聖霊に浸しこまれる時、力を受け、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリ

ヤ、さらには地の果てまで「イエス様の証人」となる。

私達が聖霊に満たして下さいと願うのは、なぜだろうか?
されに力を得て人々に力を誇示したいからだろうか。
あるいは、この世でさらに良い地位を得たり、お金に困らないようになりたいからだろうか?
否、イエス様の証人となるためである。

弟子達も主と一緒にイスラエルを復興して支配者になる事を願ったが、私達が聖霊によって力を得るのは、イエス様の証人となる事が動機となるべきである。
自分が主体のまま富や力を得ても、人を蹴落とすだけであるが、イエス様が主体となったなら、人を救う。
私達が伝えるべき福音の根幹は、イエスが生きておられるという事、罪が赦される事、新しい永遠のいのちが与えられる事であり、私達が聖霊によって力を得るのは、全て創られたものに対してイエス様の証人となるためである。
そのような皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:テオフィロスとルカと私達(使徒1:1-2):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

使徒行伝の書き出しは、ルカ福音書と同様、テオフィロスへの献辞で始まる。
つまり、使徒行伝の著者は、ルカである。
ルカ福音書は、イエスキリストと弟子達、およびその周辺に関する出来事を、詳細に調べ、テオフィロスに順を追って報告する形式で書かれている。
彼は既に記されている文献を調べ、色々な人に聞き込み調査をし、福音とイエス様に関わる事を、イエスの誕生から死、復活と昇天に至るまで順を追ってルカの福音書を編纂し、昇天以降の出来事を使徒行伝として記した。

コロサイ4:14によると、ルカはパウロに愛された医者である事が分かる。
ルカの書き方は、パウロが第2伝道旅行に行くあたりから違って来る。
それまで弟子達やパウロを、第3者の他人として書いていたものが、16章10節以降は「私達は」と、あたかもルカ自身もパウロの伝道旅行に自ら参加しているような書き方に変わる。
それまでテオフィロスに報告する立場として、客観的にキリスト者集団と関わってきたのが、途中から自ら、福音の伝道旅行にパウロの専属医として同行し、苦楽を共にして、ついにはキリストの魅力にのめり込んでしまったようである。
後にパウロが殉教する直前、2テモテ書簡の最後のほうに、デマスや他の弟子達は離れて行ったがルカだけが共にいた、という事を書いている。
ほかの弟子達はパウロを見捨てて行く中、あくまでパウロの傍を離れないほど、ルカはパウロを慕うようになったという事である。

ルカは医者である。
処女が身篭ったとか、死人が蘇ったとか、病人が手を置いたら癒されたとか、医学会から追放されてもおかしくない事を堂々と書いたのは、彼自身がイエスキリストの名における様々な徴を見、その力を体験し、実際に生きておられるイエス様ご自身と出会ってしまったからである。

今日本においてはペ・ヨンジュンが人気であり、彼のファンは北海道にも九州にもいて、彼に関する事であればすぐに意気投合するであろうが、ヨン様とイエス様の決定的な違いは、ヨン様は日本各地のファン一人一人の事は知らないが、イエス様は日本各地どころか全世界、あらゆる時代の一人一人の事を知っており、愛しており、命を投げ出した事である。
だから、北海道でも九州でも、全世界でも過去でも未来でも、私達の大好きなイエス様が愛された兄弟姉妹という事でつながる事が出来るし、私達の大好きなイエス様がその人のためにもいのちを投げ出してくださったという事で、例え一度も会った事が無いとしても、私達も彼らを愛し、病気であれば祈り、不幸があれば共に泣き、栄誉を受ければ共に喜ぶのである。

ルカもイエス様にあって兄弟姉妹と関わる内に、彼らだけでなく自分自身さえも愛して下さったキリストの魅力に取り付かれ、キリスト気違いになり、パウロと苦難を共にして、彼の処刑される直前まで共にいるほどになったのである。

この書物はテオフィロスへの献辞で始まる。
彼がどんな人物であるか色々な憶測はあるが、どんな人物であっても私達には関係が無い。
テオフィロスの名前の意味は「神の友」である。
私達信じる者も、神の友である。
つまり、ルカが記したのは、テオフィロスという一人の人物ばかりでなく「神の友」である我々にも記しているのである。

この物語を読む皆さんも、パウロ達と苦楽を共にし、伝道に参加し、現代を生きる使徒として、福音の働きを完成する手伝いをする者でありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

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