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メッセージ - 使徒の働きカテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:ヘタレなヤラレキャラでも(使徒4:1-14):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

サドカイ派が闊歩している神殿で、イエスキリストや死者の復活を語るというのは、十分逮捕されうる行為だったが、それでもペテロとヨハネは堂々とイエスをのべ伝え、五

千人以上を獲得した。
御言葉と聖霊にキャッチされているなら、イエスを伝えずにはおれない衝動に突き動かされ、そのような危険など霞んで見えたのである。
御言葉を伝える者は全てそうである。
そしてペテロ達は捕らえられて行った。

政治・宗教の上流階級であるサドカイ派は、民衆の捧げ物を独占的に管理し、思うままに税率を決め、時には搾取していた。
彼らが信望していたのはモーセ5書で、死者のよみがえり、死後の裁き等は彼らの信条には無く、現世的な生き方をしていたため、イエスキリストの教えとは真っ向から反す

るものだった。
彼らは健康や富が与えられる事が神の祝福であるとしていたため、生まれつき足が不自由で神殿の外で物乞いしている者は、神に呪われた者の典型だった。
そんな彼が、イエスの名によって癒され、永遠のいのちについて語られたのだから、サドカイ派からすればたまったものではない。

ペテロとヨハネは捕らえられ、そうそうたる面々の前に引きずり出されていった。
祭司長達とその一族、現代で言えば、大臣と教団長を足して割ったような地位の高い人達が召集され、大いに威儀を正し、
「一体何によってこのような事をしたのか」と、二人の元漁師に詰め寄ったのである。
普通の人間なら、それだけで震え上がるものだが、

彼らは物乞いであろうと大祭司であろうと「あなたがたが十字架につけたキリスト」を大胆に伝えた。
どんな立場であろうと、人間が救われる名前は、天の下において十字架につけられたキリストの他には誰もいないのである。
彼らがあまりに大胆に真理を語るので、祭司長達は何も言い返す事が出来ず、そして、彼らが無学な普通の人間であった事を知って驚いた。
彼らがそのように出来たのは、人間業ではなくまさしく聖霊の力による。

イエス様が本当によみがえったかどうかの根拠を見たい時は、どうしたら良いだろうか。
それは、福音書の前と後の弟子達を見ていると、良く分かる。

あれだけお調子者で3回も裏切ったペテロが、このように偉い人達の前で大胆に証しする事ができるように造り替えられているのだ。
もしイエス様が、有史以来、幾多もの現れては消えていった宗教の教祖の一人であったなら、死刑にされた時点で歴史の闇に葬り去られるものだし、ペテロのようなヘタレキ

ャラなど、裏切った時点で再び登場するわけが無いのである。
しかし主は、そんなヘタレなヤラレキャラさえも用いて、大胆な者へと造り変えて下さるお方である。

聖霊に満たされるにはどうすれば良いか。
それは、聖徒達の交わりから離れず、例え3度主を否んだとしても、再び立ち返るほどのしつこさが大切である。

イエス様にあくまで付いて行って大胆に造りかえられる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

 

礼拝説教メッセージ音声:待ち望んでいた安息(使徒3:17-26):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

今回の癒しの徴は、かなりインパクトがあった。
およそ20年以上も毎日神殿の門前にいて施しを求めていた、神殿に行く者達にとってはいわば目印のような者が、癒されたのである。

今回のペテロのメッセージもペンテコステの時と同じで、預言者に予め語られていたキリストが中心である。
モーセは自分のような預言者が神によって立てられる事を示し、その彼に聞き従うよう命じた。
変貌山において天から語られた言葉も、モーセでもエリヤでもなく「彼(イエス)に聞け」と言っている。
モーセ以降、全ての預言者達が語っていた事が、キリストにあって実現した。
アブラハムの子らである私達は、信仰によって不完全なからだは完全にされ、罪は拭い去られ、主の御前から安息の期間が来る。

かの癒された者は、40年もの間、不完全な体のため、美しく装飾された「美しの門」の前に20年毎日運ばれても、決してその中に入ることは出来ず、捧げ物をする事も禁じられていた。
ずっと安息できていなかったが、イエス様を信じる信仰によって安息を得た。
イエスの名によって癒され、ペテロと一緒に門を入っていったその喜びは、いかほどであっただろうか。

第7日、すなわち安息日の祝いは、私達のために残されている。(ヘブル4:9-11)
安息に入るのは信仰の故であり、安息に入れない者は福音に信仰を混ぜない故である。(ヘブル4:2-5)

この足の不自由だった者は、創造のみわざが再び完成する必要があった。
みわざの完成は、イエスを信じる信仰によって成る。

不完全さは、キリストの名によって完全にされなくてはならない。
病は、キリストの名によって癒されなくてはならない。
貧しさや不足は、キリストの名によって満たされなくてはならない。

信じて、創造のみわざを完成させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:足なえも踊る(使徒3:1-16):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

生まれつき足の不自由な男がいた。
彼は産まれてこの方、自分の足で立った事は無く、神殿の美しの門へ毎日運びこまれ、施し物をいただきながら暮らしていた。
律法ではこのような者に施すよう言われているし、毎日運んでくれる者もいたため、結構「稼いで」いたと思われる。
彼は40歳を越えており、長い間そうして来たため、神殿に通っている人達にとって「ああ、あの男か」と分かるような、目印のような存在だったであろう。

ある日、ペテロとヨハネが神殿に入って行くと彼に出くわし、彼は何年も何千人にも繰り返してきたように施しを求めた。
普通であれば、双方あまり意に介さず、暗黙的にお金を落とし受け取る事が多い中、この二人は「私達を見なさい」と言った。
彼は当然、何かもらえるものと思って二人を見る。
ところが彼がまず聞いた言葉は「銀や金は、私達には無い」であった。
私達を見よ、と言っておきながら、お金は無い、というのだ。
しかし彼らが提供できるものは、金銀よりもはるかに優れていた。
「ナザレのイエスの名によって」「歩きなさい」
手を取って立たせてもらうと、
すると足とくるぶしは強くされ、完全な体となり、歩き始めた。

産まれてこの方40年、自分の足で立った事が無かった或る日突然、自分の足で立ち、飛び跳ねる事が出来るようになったので、どれほど驚き、どれほど嬉しかった事だろう。
足が萎えている者は神のパンを捧げる事は出来ず(レビ21:18)、美しの門までは運んでもらえても、中に入る事は出来なかった。(2サムエル5:8)
彼はの喜びは、どれほどのものだっただろうか。

ただ座っているだけで稼いでいたかもしれないが、ラクして多く稼げる人生が幸せなものではなく、自分の足でしっかり立って働き、自分の足で礼拝に行く人生こそ、より優れた生き方である。

大勢の人達は彼を長らく見て知っているので、彼が癒された時、大勢が詰め掛けて来て大騒ぎになり、ペテロ達をあたかも聖者であるかのような目で見つめていた。
ペテロは「なぜこの事について驚くのか?」と言った。
、、、いや、十分驚いて然るべきである。
生まれつき足の萎えている者で40歳過ぎた人が突然、完全な体になったからだ。
しかし、こんな事で驚くなかれ、これからもっと凄い事を語るぞ、という意味で言ったのである。
生まれつきの足の萎えている者が完全に癒されるよりも、遥かに凄い話とは、ナザレ人イエスの話である。

ペテロは言った。
私達の信仰深さや力がこの人を癒したのではない。
あなたたちが拒んだ、あのイエスの名前を信じる信仰が、この人の足を強くし、完全なからだにしたのである。
イエス様というお方こそ、この癒しの奇跡よりもはるかに重要である。
なぜならイエスこそ、癒しの源、必要の満たしの源だから。。。

ペテロとヨハネは「イエスの名によって歩きなさい」と言って手を取っただけで、この人が癒されたのは、彼にイエス様の名前を信じる信仰があったからであり、ペテロやヨハネの信心や力ではなく彼の信仰による。
ベテスダの池で38年寝込んでいた者が癒されたのも、イエスの「寝床を取って歩きなさい」という言葉に従い、その通り実行したからである。

病人にとって、38年や40年という年月は絶望的に長い。
生活も、価値観も、固まってしまっていたかもしれない。
しかしイエスの名は、人間の何十年という時間や価値観よりも、はるかに力強い。
どんなに固まってしまった価値観や、固まってしまった体が動かないようであっても、義の太陽なるイエスの名の故に行動を起こす者は、彼のいやしの羽の中で癒され、牛舎の子牛のように飛び跳ね喜ぶのである。

この力あるお方の名を信じ、固まってしまった価値観や、固まってしまった体を癒していただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:初代教会の状況(使徒2:42-47):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ペンテコステの日、ペテロのメッセージによって3千人ばかりの人たちが交わりに加えられた。
彼ら初代教会の者達は何に熱心であったか、42節と46節に記されている。

1、使徒達の教え
使徒達の教えとは、彼らの口を通して語られる御言葉であり、新約聖書の大部分はそれによって成り立っている。
彼らは日々、御言葉に対して熱心だった。

2、交わり
交わり(コイノニア)の真ん中にはイエスキリストがいて下さる故、その集まりは実に麗しく楽しいものである。
信じている者たちお互いの不足の補い合いといった機能的な事ばかりでなく、主に在って心をもひとつとする行為である。

3、パン裂き
彼らは、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にしていた。
たかが食事、されど食事、わざわざ書かれてあるからには「共に食す」のは重要である。
ルカは聖餐も同等の意味で使っており、エルサレム教会においては聖餐も愛さんも同じであったようである。

4、祈り
彼らは日々熱心に祈っていたため、奇跡としるしが行われ、それによって、皆の者に恐れの念が生じた。

5、毎日一致して神殿に通い、賛美していた
神殿に行くのは普通、安息日か年毎の祭りの時のみであるが、彼らは熱心に、毎日通い賛美していたのは、主を身近に感じていたからであり、主を愛していたからである。
主の交わりは何も神殿、教会でしかできないというものではなく、各々の家々でパンを裂き、食事を共にし、礼拝ができるのである。


信じた者たちは一切の持ち物を共有し、貧しい者が誰一人いなかった。
共有していたのは物質的な物に限らず、精神的な面でも同じで、喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と共に泣いていた。
それは一人の喜びが全体の喜び、一人の悲しみが全体の悲しみであり、コイノニヤの一人ひとりこそ、キリストの各器官だからである。

彼らはそのような毎日を送っていたため、全ての民に好意を持たれていた。
この集団が周囲から孤立している集団ではなかったのは、当然、彼らが出て行って好意をもたれる事をしたからである。
私達の交わりは、自分たちだけが清らかであったり、周りから断絶するものではない。

人々をこの交わりに加えたいから伝道を頑張る、というのは、順番違いである。
主が麗しいから、自然と交わりやパン裂き等を為し、主が真ん中におられる魅力につかれた者達がコイノニヤに加えられるである。
それはまさに、主がなさる事である。(47節)

初代教会の者達がしていたように、御言葉、交わり、パン裂き、祈り、礼拝への集い、賛美を為し、主ご自身が働かれるのをたくさん見るみなさんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:悔い改め、聖霊をいただく(使徒2:36-41):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

ペテロのメッセージは、神がキリストとし主とされたイエス様を、「あなたたちが十字架につけた」と宣言して終わる。
そこにいた人達は、色々な国出身で、イエス様が十字架に架かったその時、むしろイスラエルにいなかった者の方が多かったはずである。
それなのに何故「あなた達が十字架につけた」と言ったのか。
イエス様を十字架につけた者とは、イエス様が王様になって欲しくない者、自分の好き勝手に生きたいと願う者の事であり、それは私達にも当てはまる。
3千人ほどの者達はそのメッセージで心抉られ、「どうしたら良いか」とペテロ達に聞いた時、与えられた言葉は「悔い改めなさい」であった。

「悔い改め」の原語「メタノイヤー」は人生を180度方向転換する「回心」の意味だが、ルカやマタイがこの言葉を使う場合、「悔いる」というニュアンスを同時に込める事も

多い。
イエス様の十字架を聞く時、心抉られ、悔いる体験は、深く感覚として主を知るために貴重な経験である。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、それは今までの自分を死に明け渡し、キリストへと道を整える役割を果たしていた。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、新しいいのちに生まれ変わり、イエス様と同様、死に束縛される事は無く、罪の赦しに至り、そして賜物として聖霊をいただくバプ

テスマである。

ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」と薦めた。
生まれながらの人として、この世の霊から邪悪な影響を受けていた者達が、その束縛から解放され、イエス様の愛のご支配へと移る事が出来るのだ。
この古い創造は悪しき者の手に委ねられており、全ての富も悪しき者の支配下にあるが、新しく生まれ変わった者は、新しいいのちの君なるキリストの支配下に置かれる為、

悪しき者は手を触れる事ができない。

さて、この時3千人が悔い改めたが、必ずしもこのように大成功するとは限らず、悔い改めとは逆の反応を示す者達もいる。(使徒4:16,17)
ステパノは、素晴らしいメッセージをしたにもかかわらず、誰一人、悔い改めに至らないどころか、憎悪し、ステパノは命を奪われる事になる。
しかし、彼は御使いのように輝いた表情で、自分に向かって石を投げる群集を執り成しつつ、眠りに入った。
そのように、状況とは全く裏腹の安らかな眠りに入ったのは、聖霊に満たされていた故である。
イエス・キリストの名へのバプテスマは、賜物として聖霊をいただく事ができ、死の恐怖や他人の罪からも解放されるのである。

聖霊に導かれる私達は、どのような人生となるのか、どのような最後を遂げるのかは心配するには及ばない。
状況如何に関わらず、安らかに導かれ、安らかに眠りに入るからである。
私達は頑なになる者ではなく、打ち砕かれ、悔い改め、信じる者としてキリストの内にバプテスマされ(浸し込まれ)、邪悪な世代から救い出され、聖霊を頂いて安らかに導

かれていく者達である。
そのような皆さんでありますように、イエスの名によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:死に束縛されない主(使徒2:25-35):右クリックで保存

韓国語通訳有 한국어예배

ペンテコステのペテロ説教の前半は、起きている出来事についてヨエル書から説き明かし、そして今日の箇所である説教後半部分は、イエスは死に束縛されない、永遠に生きておられるお方である事を、詩篇を元に説き明かしている。

主は天に上げられて以来、神様の右の座に着座された。
ダビデはいつも主を目の前に置いていたため、心は楽しみ、喜び、希望のうちに生きていた。
彼は預言者であったため、彼の子孫をとこしえに王座に着かせる事を示されていた。
私たちも同じように、既に挙げられ御父の右の座から統べ治めておられる主の守りの内に、楽しみ、喜び、希望の内に生きていくのである。

「主はわが主に言われた、『私の右に座せ、私がお前の敵をお前の足下に据えるまで』」(使徒2:34)
この箇所は詩篇110編からの引用である。

なぜダビデは、その子孫であるキリストを主と呼んでいるか。
それはキリストこそダビデよりはるかに優れて偉大な王であり、メルギゼデクに等しい永遠の祭司であり、死に束縛されない、とこしえに生きておられるお方だからである。

キリストは敵であるサタンも、死をも、永遠に足の下に踏みつける事になる。
ダビデは死に、私たちもいずれ第一の死が訪れるが、キリストは死とハデスを滅ぼし、硫黄の燃える池に投げ込まれる。
これが第2の死であるが、キリストにある私たちには、第2の死はむしろ救いの時である。
信仰の子孫である私たちも、ダビデやキリストとともに王座に着座し、とこしえに統べ治めるのである。

ペテロは福音を告げ知らせる者となり、それを聞いた者達はそれを世界中に告げ知らせ、そして後には、私たちにも届いた。
福音とは、勝利のよき知らせである。
何に対しての勝利か?
それは死に対して、サタンに対してである。
私たちも、死に対し、サタンに対しての勝利を告げ知らせる者達である。

ペテロように勝利の良き知らせを伝え、死に、サタンに勝利した者として相応しく、多くの分捕りをして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:あのペテロさえも(使徒2:12-24):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

聖霊のみわざを見た大勢の人達が驚き惑っていたところ、ペテロが立ち上がり、大胆に語り始めた。

いつも一言多かったり、とんちんかんな事を言ったり、素晴らしい告白をしたすぐ後に「サタン」呼ばわりされたり、裏切らないと言ったその日に裏切ったりした、あのペテ

ロが、大勢の前で、堂々と、御言葉を引用して説教し、人々を悔い改めに導いたのだ。
バルヨナ(人の子)シモンには、とうていありえないわざである。

彼は霊に促された(14節)からこそ、このような事ができたのだ。
霊に促されてしまったら、人間業ではないわざを、せざるを得ない形でしてしまうのである。

見ていた人達の中には、あざ笑って、酒に酔っているのだ言った者もいたが、ペテロは朝だから酒に酔っているのではないと釈明した。
そもそも、起こった出来事を見れば酒を飲んでではない事は明らかである。
彼らは風の大音響のために集まったのだし、色々な国の言葉を一瞬で身に付ける事も出来ないし、神様のおおいなるみわざは酔っ払って話せる事ではない。
ペテロはむりそ、大いなる奇跡よりも、ナザレ人イエスというお方について時間を割いて丁寧にメッセージしている。

ペテロはまず、預言者ヨエルの言葉を引用し、この出来事は今の終りの日に神が全ての人達に霊を注いだ結果だと語った。

あらゆる世代の者達も、身分の高い低いも問わず、霊が注がれる。
息子や娘達、つまり、当時は数にも数えてもらえなかったような幼い者達さえ、神の言葉を預かる者となる。
若者達は霊が注がれれば幻を見、希望とビジョンを持って行動する事ができる。
また老人さえ夢を見、歳をとっても将来に対する夢と希望が持てるようになる。

ヨエル書では続いて、天における大いなる徴について記されており、主題は「主の名を呼ぶ者は全て救われる」という事である。
すなわち、ペテロの説教の主題は、その「主」イエスである。
主は数々のしるしを伴って、ご自身が神の子である事を示されたのだ。

今の時代、ヨエル書に出てくるようなしるしが多く現れているが、私達が伝えるべきは、こうした天のしるしではなく「主イエス」である。

主は確かに生きておられ、あの臆病でそそっかしいペテロも大胆な説教者に変えられた。
「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうし

て聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)
この終りの時代、聖霊が豊かに与えられ、イエスというお方を大いに伝える皆さんでありますように、イエスの名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:ペンテコステ(使徒2:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

五旬節(ペンテコステ)の日、主イエス様がかねて約束されていた聖霊の満たしが実現した。

この日は、過越し祭の安息日(初穂の祭りの日、主が甦られた日)の翌日から50日目に行われる「七週祭」と言われている収穫祭である。(出34:22)
初穂の祭りはイエス様が甦られた日であり、いわば内密な、プライベートな収穫の現われであるのに対し、七週祭はいわば公に収穫を感謝する祭りである。
そういうわけでこの日は各地に散らばっていたユダヤ人や改宗者がエルサレムに集まっており、多くの人達がこの徴を見た。

聖霊に「満たされ」とあるが、ここで使われている原語は「プレソー」、機能的な、公な満たしである。
聖霊充満にはもう一種類あり、原語は「プレロー」、プライベートな、本質的な満たしの意味がある。
主が復活された日、弟子達は「聖霊を受けよ」と主に息を吹きかけられて聖霊を受けた。
目に見えるしるしの形では現れていなかったが、その時、既に本質的な満たしを受けたのである。

皆さんは、目に見える形で聖霊の徴が現れた経験は、あるだろうか。
聖霊の顕著な現われの経験が自分には無い、と気にしている方はいるが、イエス様を信じた時点で、既に聖霊に満たされ(プレロー)ているのである。
誰でも聖霊によるのでなければイエスは主であると告白しない、と書かれてあるからである。

さてこの日、大音響、振動、火のような舌という形で、公な形で聖霊の現れがあった。

火のような舌が弟子達一人一人の上に留まった時、「異なる言葉」、すなわち自分由来ではない言葉で、神様の大いなるわざを述べだした。
そのような不思議が現れるのは、ひとえに神の国の大いなるわざを人々が聞くためであり、その人自身が特段優れているからではないし、その人に栄光が返されるためでもない。
神様の大いなるわざを述べようとする意思があって、神様のことばを必要としている人の前に立つなら、誰にでも起こりうる。

そもそも、なぜ人々の言葉は違い、また相手の思いや意図、感情を理解する事が出来ないのだろうか。
それは、遥か昔に起きた、神様の呪いによってである。
当時人々は一つの思い、一つの言葉を用いて高ぶり、天に届こうとする塔を建てようとしたため、神様が言葉を混乱させたのである。

このペンテコステの日、その呪いの逆が起きた。
それぞれの言葉で弟子達が語る事ができたのは、「神様の大いなるわざを述べるため」であり、その動機であれば、言葉における呪いは適用されなくなるのである。
この教会にはたまに日本語・韓国語が全くわからない中国の姉妹達が来るが、なぜ彼女達は来るのか。
それは、たとえ言語が通じなくとも、まことの言葉なる「イエスキリスト」が通じるからである。
何も、異国の言語だけではなく、他人の隠れた思いや感情も判る現われもある。

聖霊の満たしに徴が起こるのは、神様の大いなるわざが現れるためである。
神様に栄光が無い徴は、かえって起こらないほうがよい。
なぜなら、その人にとって逆に災いになってしまうからである。

神様の栄光のために、人々に届く形でキリストを伝えられる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:マッテヤ(使徒1:15-26):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

イエス様が天に挙げられた時、キリストを信じる者達は120人ばかりの群れだった。
結構な人数にも見えるが、使徒行伝を読み進めて行くうちにその人数はさらに膨らんで行き、当時はユダヤ一地方の集まりだったが、今ではその集まりは全世界に広がっている。

本日の箇所でペテロは、ユダについて語り、彼が元々どのような務めがあり、どのように脱落し、彼の亡き今、その職を他の人に継がせたい、という事を語った。

ユダは使徒のうちに数えられ、奉仕の分け前を「くじで」受けて(岩波訳)おり、イエス様も「わたしがあなたがたを選んだのではないか」と言っているため、この職は自らなるものではなく、主から選ばれ与えられるものである。
私達が神に愛され、呼び出され、任命されたのである。
私達から神を愛したのでもなく、聖なる務めに自ら就いたのでもない。

しかしユダは、良くないやり方で報酬を手に入れ、どういう経緯でかは判らないが尋常でない死に方をし、その事は有名になってしまった。彼は召されたが、聖なる職権を乱用し、不正な手段で得るべきではない報酬を得、そして、その報酬の真ん中へまっ逆さまに落ちて、粉々になってしまった。
このような形で最後を遂げたり、有名にはなりたくないものである。

ペテロは、ユダが「はらわたが飛び散った」云々と言ったが、果たしてそう言える口なのだろうか。
ペテロは確かに裏切ったが、誰にも咎められなかったのは、他の弟子達も同様一人残らず裏切ったのであり、そして、悔い改めたからである。
ペテロは聖徒達の交わりに復帰し、イエス様に聖霊を息吹かれ、心のわだかまりも復活の主ご自身に取り扱ってもらった。

使徒信条は「聖なる教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのち」の順番で続く。
聖徒の交わりの中にいれば、赦しがあり、よみがえりがあり、とこしえのちのちへ入る事が出来る。それだから、教会における聖徒の「交わり」は大切なのである。

ユダが脱落したため、彼の受け持っていた職を、他の者に継がせなくてはならなかった。

使徒職にふさわしい者とは、ペテロが示している通り、第一に「ヨハネの洗礼の時から始めて、私たちのもとから挙げられた日に至るまで、共にいた人々」であり、二つ目として「よみがえりの証人」である。(22節)
つまり使徒たる条件は、イエス様がどのようなお方であり、どのような事をなされたのか、という事を体験し、そして、彼が死人の中から復活した事を証言する者である。

くじはマッテヤという人物に当たった。

彼はこの箇所にしか登場しないため、どのような人物であるのかは分からないが、彼がどのような人物であったかと議論する必要は、全く無い。
なぜなら、イエス様の証人である私達こそが、マッテヤだからである。

私達もマッテヤ同様、脱落したイスカリオテ・ユダの不足分を補い、イエスが死者の中から復活して今生きており、その彼はどういうお方であるかという事を、伝える者達である。
同様に、脱落して行ったユダも歴史上の一人物とは限らず、もし神に選ばれた聖なる務めを軽んじ、不正な利益を得ようとするならば、その者はユダと同様であり、聖なる務めは剥奪され、自らの欲望へまっさかさまに落ち込んで行き、他の者がその務めの跡を継ぐのである。

マッテヤのように、立派な証人となる事が出来る皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

礼拝説教メッセージ音声:なぜ天を仰いで立っているのか(使徒1:9-14):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배

弟子達の他、イエス様の兄弟達や、いつも離れずに共にいた女達もこの場所におり、彼らが見ている前で、主は天に上げられた。
彼らは約束された聖霊を受ける時までの暫くの間、共に集まり、アッパルーム(屋上の間)にて熱心な祈りを捧げる事になる。

イエス様は両手を挙げて弟子達を祝福し、その祝福している姿のままに離れて行き天に運び上げられて行った。(ルカ24:50-52)
そこに二人の白い衣を着た人達が現れ、語った。
白い衣を着た人達は恐らく御使いであろう。

御使いが現れるからには重要な場面であるので、彼らの語った言葉を詳しく見たい。

「ガラリヤの人たちよ」

ガラリヤ地方は異邦人と混合する、蔑まれるべき田舎の地方であった。
弟子達は、人々からは蔑みの対象として呼ばれる「ガリラヤの人達」かもしれないが「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」(イザヤ8:23新共同訳、口語訳9:1)
ガリラヤの人達は、人々から虐げられ、自分で自分さえも虐げられるに相応しいと思っていたかもしれない。
闇の中を歩んでいたかもしれないし、死の陰の地に住んでいたかもしれない。
しかし、そんな彼らが、栄光を受けるのだ。
なぜなら、ひとりのみどりごが、彼らの為に与えられるからである。(イザヤ9章)

弟子達はとても喜べる状況ではなかったが、それでも彼らは喜んだ。
「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)が、世の終りまで、決して離れる事無くいつも共におられると約束されたからである。
私達もこのお方にあって、大いによろこび、楽しみを得る事ができる。

「なぜ天を仰いで立っているのか。」

現代においても、ある人達は再臨を待ち望み、山の頂上で待っていたようであるが、そんな事をしていたらこの御使い達に「なぜ天を仰いでいるのか」と叱られるであろう。
私達は、雲の向こうに見えなくなったイエスを期待して、天を見上げて立っているべきではないし、口を開けて木の実が落ちるのを待つ者のように、目に見える徴や奇跡を期待して待っているべきでもない。
それぞれの場所、それぞれの日常においてしっかりと根ざし、共に集まり、熱心に祈っているべきである。

「イエスは、天に昇るのをあなたたちが見たのと同じ有様で、やって来るであろう」

この事は、何も再臨の時に限った事ではない。
信じる者達全てに、今も、祝福の姿勢のまま現れて下さる。

目に見える主の現われや、目に見える徴・奇跡が来るのを天をあおいで待つのではなく、日常生活の中で熱心に祈り、一致し、集まるみなさんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!

横浜天声キリスト教会 copyright 2011

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