メッセージ - 神は崇高すぎて、苦しみもがく人間の願いをバーンと撥ね退けてしまうお方、か?(ヨブ記23章)

神は崇高すぎて、苦しみもがく人間の願いをバーンと撥ね退けてしまうお方、か?(ヨブ記23章)

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pastor 2018-6-4 10:46

神は崇高すぎて、苦しみもがく人間の願いをバーンと撥ね退けてしまうお方、か?(ヨブ記23章)
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前章において、エリファズは神の絶対性、全能性をとうとうと語り、神をなにか、無感覚・無感動な「冷たい神」であるかのように思わせられる言葉で言ったが、ヨブはこの章では、エリファズに反論しない。
むしろ、神はそういう「冷たさ」があるという神観を、彼もある程度持っており、その「冷たさ」に、どうにも我慢ならないので、なんとしても神と論じ合いたいと願っている。

23:1 そこでヨブは答えて言った、
23:2 「きょうもまた、わたしの「つぶやき(苦い祈り)」は激しく、/彼の手はわたしの嘆きにかかわらず、重い。

ヨブはエリファズの冷たい神観に共感したのか、この章では、苦々しい思いに満たされた状態である

23:3 どうか、彼を尋ねてどこで会えるかを知り、/そのみ座に至ることができるように。
23:4 わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、/口をきわめて論議するであろう。
23:5 わたしは、わたしに答えられるみ言葉を知り、/わたしに言われる所を悟ろう。
23:6 彼は大いなる力をもって、/わたしと争われるであろうか、/いな、かえってわたしを顧みられるであろう。
23:7 かしこでは正しい人は彼と言い争うことができる。そうすれば、わたしはわたしをさばく者から/永久に救われるであろう。

ヨブはここにおいて、神と論じあうなら、神は自分の正しさを見出してくれるだろう、という思い込みがあった。
その思い込みは後で粉々に砕かれるのだが、ここにおいてヨブは、とても重要な願いが起こされている。それは、「神と論じ合いたい」という願いだ。
神と論じ合う、すなわち、神と交わりたいという飢え渇きこそ、神の前において義とされて行くための重要な踏み出しである。

イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

私達の側に、義は一切無いが、唯一「義なるお方」である主と論じ合い、主と交わっていくうちに、人は、緋のような赤い罪も、白くされて行く事が可能なのだ。

23:8 見よ、わたしが進んでも、彼を見ない。退いても、彼を認めることができない。
23:9 左の方に尋ねても、会うことができない。右の方に向かっても、見ることができない。

ヨブは、主と論じ合いたいと望んでいる。けれども、見いだせないでいる。
確かに、求めている探している段階は、何も見えずに辛いが、しかし求め続けているなら、やがて与えられる。
ヨブは主を求め続け、後にはついに、主と出会うことになる。

23:10 しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、/わたしは金のように出て来るであろう。
23:11 わたしの足は彼の歩みに堅く従った。わたしは彼の道を守って離れなかった。
23:12 わたしは彼のくちびるの命令にそむかず、/その口の言葉をわたしの胸にたくわえた。

ヨブは、もし主と論じ合うなら、神は彼を「金」のように見てくれるだろう、という思い込みがある。
彼は、自分はずっと主の道を守って離れなかった、その命令に背かず、御言葉を蓄えてきた、という自信がある事をここで告白しているからだ。
確かにヨブは、まわりと自分とを比べれば、自分のほうが遥かに正しいので、自分を、神の御前でも黄金のような自分として通用すると見たのかもしれない。
事実、神もサタンに、ヨブ以上の人物はいない、と言った。

しかし残念ながら、人は、人と比較して義となるのではなく、神の基準において義と認められなくては意味がなく、さらに残念な事に、すべて「人の義」は、神の御前においては「汚れた衣」に過ぎない。

イザヤ64:6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。

このイザヤ書の「汚れた衣」を直訳すると、(女の)月のもので汚れたもの、である。
人間がいくら頑張ったところで、人の義、私達の正しい行いとは、神の前ではそんなものでしかない。
そう、義人はいない、ひとりも、いないのだ。

預言者イザヤは、それを絶望して終わるのではなく、主に食らいついて行った。

イザヤ64:8 されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。
64:9 主よ、ひどくお怒りにならぬように、いつまでも不義をみこころにとめられぬように。どうぞ、われわれを顧みてください。われわれはみな、あなたの民です。

イザヤは主に申し上げた。
主よ、あなたは我々の父ですよね、そして我々は、あなたの民ですよね、と。
あなたは陶器師で、我々はあなたの御手の内で作られる粘土ですよね。そうであるからには、あなたは我々人間の弱さ、罪に傾く性質を、知っておいでになられます。
どうかそんな私達の様を知り、私達に憐れみをかけてください、と。

このように、主に食らいついていき、主と「論じ合う」事、主との交わりへ入って行く事こそ大事なのだが、ヨブは、神を「崇高すぎるお方」「言っても聞きはしないお方」だという認識で、無気力になってしまっている。
たとえ万一こんな自分の声が、神に届いたところで、神はそんな願いをバーンと撥ね退けてしまうのではないか、と。
それで、次のように告白する

ヨブ記23:13 しかし彼は変ることはない。だれが彼をひるがえすことができようか。彼はその心の欲するところを行われるのだ。
23:14 彼はわたしのために定めた事をなし遂げられる。そしてこのような事が多く彼の心にある。

結局、「みこころ」だけが成就するのだったら、祈っても、願っても、論じても無駄だ、こんなにひどい目に遭わされているのに、神は、何の答えもくださらない。
こんな目に遭っているのかという理由さえも教えてくれない、という思いで満たされている。

23:15 それゆえ、わたしは彼の前におののく。わたしは考えるとき、彼を恐れる。
23:16 神はわたしの心を弱くされた。全能者はわたしを恐れさせられた。
23:17 わたしは、やみによって閉じこめられ、/暗黒がわたしの顔をおおっている。

ヨブは、かなり弱気になっている。
19章の強気とは、打って変わって。

ヨブは、霊の中で、なんとなく悟っていたのだ。
自分の義は、結局、汚れた衣に過ぎない、と。
それではヨブは、なぜ、19章では強気になっていたのか。
それは、彼をあがなって下さるお方が生きておられる、と高らかに宣言したからだ。

結局、自分の義は、汚れた衣に過ぎない。しかし、私達を購って下さるお方を拠り所とするなら、私達は強いのである。
私達にとって、購って下さるお方、それは、私達の主、イエス・キリストである。
このお方に依り頼むなら、私達は強いのである。
全くもって義を持ちあわせていない私達が、義とされるには、私達を義として下さる主の元に行く他に無い。

自分の義は、月のもので汚れたものだ、とイザヤは言ったが、それでもイザヤは主に食らいついて行った。同じように、ペテロも主に自分の弱さを告白し、ただ「あなたがそんな弱いわたしをご存知です」、と、主にすがりに行った。

ヨハネ21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。

ペテロは、自分には主を完璧な愛で愛し尽くす愛が無い事を、イエス様の十字架と復活を通して思い知らされた。
しかし、ペテロのこの告白、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」という告白が、彼にとって転機となる。

ヨハネ21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。

ペテロはこれまで、自分の好む帯をしめ、自分の好む方へと、気ままに歩んでいた。
しかし、イエス様と交わり、関わっていくうちに、より優れた道を、主イエス様の中で見出して行った。

ペテロは後に、聖霊が与えられ、力強い大胆な主の働き人となり、そして最後には、イエス様の御名ゆえに、殉教して行く。
多くの人を、イエス・キリストにある永遠のいのちへと導きながら。
この出来事の後の彼の道は、彼の望む道ではなかった。
もっと優れた、神の国を拡大して行く道、栄光の道である。

ヨブは、自分の願いや思う事が聞き届けられないと思って、怒り、主の「みこころ」だけが成って、この圧倒的全能者を前に、自分は何を言っても無駄なのだ、と、無気力になった。

主は、聞いておられないのではない。
知っていないのではない。
私達の思い、願いを、十分に知り、そして知った上で、主が備えて下さる私達の最善・最良・最高の道へと歩ませるために、あえて、私達が願う道(罪と弱さに満ちた不完全な道)を、閉ざし、主が用意された最良の道に、取って代わらせようと、愛をもって導いておられるのだ。
それは、ヨブ記をわずか一節でまとめた、次の新約の言葉に現れている。

ヤコブ5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

結局、人は主を抜きにしては、何も分からないし、何もできない。
ただ、人を義にしてくださる事がおできになる主と、論じ合い、主に知っていただき、主と交わりながら生きていく他、ないのである。

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