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メッセージ - エリファズによる三回目の弁論 - 顕わにされたヨブと友人達の貧しい神観(ヨブ記22章)

エリファズによる三回目の弁論 - 顕わにされたヨブと友人達の貧しい神観(ヨブ記22章)

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
執筆 : 
pastor 2018-6-1 8:38

エリファズによる三回目の弁論 - 顕わにされたヨブと友人達の貧しい神観(ヨブ記22章)
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_______________ .
20章は、エリファズによる三回目の、そして、最後の弁論である。
前章では、ヨブが、因果応報と悪因悪果の単純な押し着せばかりをする友人達に真っ向から反論して、現実では悪人が平然と栄えているではないかと指摘した。
そのため、それに真っ向から反対する形で答えるのだが、その答えの中に、エリファズの貧しい神観があらわにされる。

22:1 そこでテマンびとエリパズは答えて言った、
22:2 「人は神を益することができるであろうか。賢い人も、ただ自身を益するのみである。
22:3 あなたが正しくても、全能者になんの喜びがあろう。あなたが自分の道を全うしても、/彼になんの利益があろう。

エリファズは言う。
「全能者」の前に、いくらがんばったところで、何の益があるだろうか、と。

全能者(シャッダイ)という言葉がヨブ記には何度も出てくる。
神をあらわす言葉には、色々あるが、特にこの全能者(シャッダイ)という言葉は、ヨブ記の登場人物が非常に頻繁に用いている。
全能者(シャッダイ)という言葉は、旧約全体で48回用いられているが、そのうち、31回も、ヨブ記で使われている。
だから全能者(シャッダイ)という言葉は、ヨブ記における神観をあらわす特徴的な言葉であるといえる。
そして、その「全能」が強調されるあまり、人の側が何を努力しても無駄に感じるような雰囲気ある言葉だ。
もし神の「全能」な面だけを見続けて、それにひきかえての自分と比較するなら、無気力になってしまう言葉である。

エリファズは「人は神を益することができるであろうか。賢い人も、ただ自身を益するのみである。あなたが正しくても、全能者になんの喜びがあろう。あなたが自分の道を全うしても、/彼になんの利益があろう。」と言った。
実に、神と相対しようとする人を、無気力にさせる言葉である。

神は、愛である、と、聖書に書いてある。
親という存在は、子供に正しく完璧である事を求めるばかりだろうか。
完璧にできないなら、ただつっぱねるだけが親だろうか。
親は子供をかわいく思い、なんとか助けようと思うものだが、世の親子関係は、まことの父なる神と私達との、真の親子関係の、影にすぎない。

イエス様は、罪の泥沼でもがき苦しんている私達を、「かわいそう(スプランキニゾマイ:はらわたがちぎれる思い)」に見て下さる。
イエス様は、神を父と呼び、そして信じる私達を、神様との父子関係へと、招いて下さる。
イエス様は私達を友と呼び、十字架を通して兄弟姉妹の関係へと、さらには、雅歌書のように、甘い花婿と花嫁の関係へと導いて下さる。
それはひとえに、人が神と関わる事によって。神と、ともに歩む事によって成就して行く。

エリファズには、そして災いが起きる以前のヨブには、その神感がなく、ただ、シャッダイなる神の神感しか無かった。
だから、主の御名が無い彼らの議論を聞いていると、救いが無いので、どんどん心が渇いて行くのだ。
それは、因果応報・現世利益を求める世の宗教全般も同じであり、だから、ヨブ記を読むと、なにか世の宗教に似た雰囲気が流れているのだ。

ヨブ達の議論の中に、エホバなる主の御名は、ただ一度、ヨブの口から出ただけだったが、主「エホバ」の御名にこそ、救いがある。
主の御名「エホバ」はヘブライ語では「יהוה(ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘー)」である。
ヘブライ文字にはそれぞれ意味が込められているが、この4文字のそれぞれの意味は、まず「ユッド」は「手」が関係する文字であり、「ヘー」は「見よ」という意味があり、また「ヴァヴ」には「釘」の意味があり、すなわち、主の御名 ユッド、ヘー、ヴァヴ、ヘーは「手を見よ、釘を見よ」という意味があるのだ。
これは実に、十字架上で釘うたれるイエス様あらわしており、その御方を見よ!と語られている文字だ。
つまり、主エホバの御名が人に知らされた時以来、何百年、何千年も、主の御名が宣言される度に「あの手を見なさい、釘打たれたあの手を見なさい」と、語り続けて来たわけである。

エリファズは、全能者という神観のみで、人には崇高すぎて手がとどかないような、あるいは、無感情なお方という、不完全な神観を持っていた。
そして、前章において、ヨブが「悪人でも栄えている者がいるではないか」と反論した事を受け、やっぱりヨブは悪人を養護した、やっぱりヨブは隠れて悪の行いをしていたのか、と、勘違いしたのか、エリファズの想像上のヨブの悪行の数々を、具体的に並べ始める。

22:4 神はあなたが神を恐れることのゆえに、/あなたを責め、あなたをさばかれるであろうか。
22:5 あなたの悪は大きいではないか。あなたの罪は、はてしがない。
22:6 あなたはゆえなく兄弟のものを質にとり、/裸な者の着物をはぎ取り、
22:7 疲れた者に水を飲ませず、/飢えた者に食物を与えなかった。
22:8 力ある人は土地を得、/名ある人はそのうちに住んだ。
22:9 あなたは、やもめをむなしく去らせた。みなしごの腕は折られた。
22:10 それゆえ、わなはあなたをめぐり、/恐怖は、にわかにあなたを驚かす。
22:11 あなたの光は暗くされ、/あなたは見ることができない。大水はあなたをおおうであろう。
22:12 神は天に高くおられるではないか。見よ、いと高き星を。いかに高いことよ。

神はあまりに高くおられる。。。それがエリファズの神観だが、悪人はそれを逆用し、調子にのって悪を行う。
彼は、ヨブがそうだと決めつける。

22:13 それであなたは言う、『神は何を知っておられるか。彼は黒雲を通して、さばくことができるのか。
22:14 濃い雲が彼をおおい隠すと、/彼は見ることができない。彼は天の大空を歩まれるのだ』と。
22:15 あなたは悪しき人々が踏んだ/いにしえの道を守ろうとするのか。
22:16 彼らは時がこないうちに取り去られ、/その基は川のように押し流された。
22:17 彼らは神に言った、『われわれを離れてください』と、/また『全能者はわれわれに何をなしえようか』と。
22:18 しかし神は彼らの家を良い物で満たされた。ただし悪人の計りごとは/わたしのくみする所ではない。
22:19 正しい者はこれを見て喜び、/罪なき者は彼らをあざ笑って言う、
22:20 『まことにわれわれのあだは滅ぼされ、/その残した物は火で焼き滅ぼされた』と。

これら言葉の節々に、かつてヨブが言った事の言葉のいくつかが混じっている。
彼は言葉じりを捉えて、責めているようであるが、それは、(ヨブが)悪を捨てて、神に立ち返るように、という、次につづく言葉へつなげるためだ。

22:21 あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。
22:22 どうか、彼の口から教を受け、/その言葉をあなたの心におさめるように。
22:23 あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし、/あなたの天幕から不義を除き去り、
22:24 こがねをちりの中に置き、/オフルのこがねを谷川の石の中に置き、
22:25 全能者があなたのこがねとなり、/あなたの貴重なしろがねとなるならば、
22:26 その時、あなたは全能者を喜び、/神に向かって顔をあげることができる。
22:27 あなたが彼に祈るならば、彼はあなたに聞かれる。そしてあなたは自分の誓いを果す。
22:28 あなたが事をなそうと定めるならば、/あなたはその事を成就し、/あなたの道には光が輝く。
22:29 彼は高ぶる者を低くされるが、/へりくだる者を救われるからだ。
22:30 彼は罪のない者を救われる。あなたはその手の潔いことによって、/救われるであろう」。

確かに、それは間違いではない。
主に立ち返るなら、主は栄光を、富を、健康を返して下さる。
主に聞き従う人は、あらゆる面で祝福される。

しかし、そうした現世的な祝福が来るから、神に立ち返れ、と勧めるだけなら、それは、世のご利益宗教と何ら変わる所がない。
確かに信仰の初心者に対しては、それで良いかもしれないが、何年も信仰生活を続けた人が、ずっとそこに留まっているとするなら、何ら信仰が成長していなかった事になってしまう。

もしも、富が与えられるから神を信じなさい、と言う信仰だけだったとするなら、すぐさまサタンにやられてしまう。
そもそものヨブ記の始まりにおいて、サタンがヨブを攻める口実が、まさにそうだった。
それなら、世的な祝福それが取り上げられたなら、神を呪いながら捨て去る以外に無い。

ヨブ記1:9 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
 1:10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
 1:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

サタンさえ誘惑してくる。
ルカ4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。

なぜヨブ記が記されたのか。
それは、全ての信仰者達を、そのような「貧しい神観」から、脱却させるためではないだろうか。

神は、単に崇高な高いだけのお方ではない。
近くにいまし、私達を知っておられるお方である。

神は、単に全能者であられるばかりではない。
愛なるお方である。

そして神は、無感情・無関係なお方では、決してない。
神は、愛の関係を求めておられるお方であり、そして私達が神と関係する事によって、義とし、ますます神に近い者へと造り変えて下さるお方である。

ヨブは、以前は、神に何か物申しても無駄だ、たちまちにその全能なる御腕で、こんな私の訴えはいとも簡単にへし折られてしまうのだ、という神観だった。(9章)
しかし神は、ヨブに災いの中を敢えて通らせ、そして、友人達の主の御名なき因果応報・ご利益宗教に、カラカラに渇きを覚え、その末に彼は、神と論じ合いたいという思いが起こされた。(13:3)
さらに彼は、神と人との間に立って下さるお方、それも、彼の保証となり、彼の弁護者となって下さるお方を、求めるに至った。(19章)
そしてヨブ記の最後、彼は、神に関する知識を深め、神との深い交わりによる祝福にあずかる事となって行く。

イザヤ書において、主は「互いに論じよう」と言っておられる。
それによって、緋のような罪が白く、紅のような赤い罪が羊の毛のようにされていくのだ。

結局、人にとって、創造主と一緒になって密接に関わる事こそ、最も大事なのだ。
それがたとえ、喧嘩腰であったとしても。

神は、因果応報・ご利益宗教の、無感覚・無感動・無関係の、マシンのような神ではない。
私達のところに降りて来てくださり、相撲を取ってでも関わる神であり、熱烈に愛し、もし別の神に浮気するなら激情に駆られて妬む神である。
雅歌書で表現されているように、花婿が花嫁を愛し慕い求めるような、甘い愛をもって慰めてくださる神である。
キリストは私達を救うために、天を押し曲げて降りて来てくださり、人となり、十字架の上で苦しみを受けるパッションの神である。
そして、罪人の一人が悔い改めるなら、天で大宴会を起こすほどの神なのだ。
この神との関わり、それこそ、人が求めるべき事である。

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