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メッセージ - めいめいが自分の目に正しいと見える事を行う呪いの時代(士師記21:25)

めいめいが自分の目に正しいと見える事を行う呪いの時代(士師記21:25)

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
執筆 : 
pastor 2014-12-25 20:38

礼拝説教メッセージ音声:めいめいが自分の目に正しいと見える事を行う呪いの時代(士師記21:25):右クリックで保存

『そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。』(士師記21:25)

これは、士師記が荒んだ時代になってしまった原因を端的に表す言葉であり、私達もこの言葉のように、キリストという王を退け、自分の目に正しいと見える所を行って行くなら、士師記の暗黒時代へと邁進してしまう、という、シンプルで明瞭な法則でもある。

聖書は始めから、人には二通りの道がある事を示し、また、それぞれの道に歩んだ結果も示している。
その二つの道とはすなわち、いのちの道と、善悪判断の道である。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17)
人類なら誰しも避けては通れない究極の二者択一がある。
それは、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るかである。
究極の二択とは「善か悪か」ではない。聖書が提示する究極の選択とは、「いのちか、善悪判断か」なのだ。

神は、善悪の知識の木から食べる事を禁じられた。神から離れた善悪判断の歩みは、いわば「神のようになる事」(創世記3:5,22)であり、サタンの道である。
サタンは神のようになろうとした結果、地に投げ落とされてしまった。(イザヤ14:14)
神から独立した善悪判断の道は、サタンの道であり、その行き着く先は破滅である。

士師記の時代のように、御言葉を離れ、おのおの自分の目に正しいと思える事を行う事は、まさにこの善悪判断の道であり、そのまま破滅へと向かう道であった。
荒野の40年の終わりの時、モーセは最後の説教において、めいめい正しいと思うように歩んではならない、と、警告し、むしろ主が定められた事を守り行うように命じたが(申命記12:8-11)、めいめいが正しいと思うようにふるまった人々は、荒野で40年放浪した末に、屍となって荒野に打ち捨てられてしまった。
また、士師記の時代も同様に、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった結果、あのような罪深く荒んだ時代へと落ち込んで行ってしまった。
まさにイザヤ書59章の状態である。

『それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。
そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。』(イザヤ59:9-16)
こうして、人々が神の民の有り様から遠く離れてしまった様を悲しみ、御言葉から離れるならば、自ら苦々しい結果しかもたらさない事に懲り、どうしようもなくなった時に、主ご自身が働かれるのだ。

『わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。』(エゼキエル34:23-24)
そして主は、いよいよ、一人の羊飼い・ダビデを起こされる。士師記の次の書・ルツ記は、ダビデが生まれる事の予告で終わる。
人々の罪悪が増し加わり、人々の心に主を渇き求めた時、ダビデが生まれるのは、旧約と新約の間の沈黙の400年の後、ダビデの子孫でありまことの牧者であるキリストがお生まれになったのと同じである。

ダビデも、キリストも、ともにベツレヘムで生まれた。
ベツレヘム、それは「パンの家」という意味であり、このベツレヘムから離れた者は、ろくなことが起こらなかった。(士師記17章、19章)
しかし、このベツレヘムから離れずにいて、士師記の混迷の時代においても、着実に有力者として育っていった者があった。
その人については、次のルツ記にて見ていきたい。

今、私達も、おのおのが良かれと思う事を行っている混迷の時代を生きている。
その中において、「御言葉のパンの家」から離れず、しっかりと御言葉から養いを受け、有力者となっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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