メッセージ - 主を喜ぶ事は力である(申命記12:5-14)

主を喜ぶ事は力である(申命記12:5-14)

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執筆 : 
pastor 2014-1-31 23:20

礼拝説教メッセージ音声:主を喜ぶ事は力である(申命記12:5-14):右クリックで保存

イスラエルがカナンに入って真っ先に為すべきは事は「きよめ」だった。その次に為すよう命じられている事は、感謝と喜びをもって、礼拝を捧げる事である。
きよめた後に、礼拝を捧げる。この順番は大事である。
『あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまいを尋ね求めて、そこに行き、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物と、誓願の供え物と、自発の供え物および牛、羊のういごをそこに携えて行って、そこであなたがたの神、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して獲るすべての物を喜び楽しまなければならない。これはあなたの神、主の恵みによって獲るものだからである。』(申命記12:5-7)
私達も、主が約束を成就して下さった時には、感謝と喜びをもって礼拝を捧げ、兄弟姉妹と共に、御前で喜び楽しむべきである。

そして、礼拝を捧げる際には、人が勝手に定めた所ではなく、主が定められた所を尋ね求め、そこに行き、主が定められた通りに礼拝を捧げるよう命じられている。
『あなたがたがヨルダンを渡り、あなたがたの神、主が嗣業として賜わる地に住むようになり、さらに主があなたがたの周囲の敵をことごとく除いて、安息を与え、あなたがたが安らかに住むようになる時、あなたがたの神、主はその名を置くために、一つの場所を選ばれるであろう。あなたがたはそこにわたしの命じる物をすべて携えて行かなければならない。すなわち、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物およびあなたがたが主に誓ったすべての誓願の供え物とを携えて行かなければならない。』(申命記12:10-11)

私達も、御言葉というガイドラインを無視して、自分の目に正しいと見られる事を行ってはならない。
『そこでは、われわれがきょうここでしているように、めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。』(申命記12:8)と言われている通りである。

もし、御言葉に聞くということをせず、めいめいが「これが正しい」と見える事に従って、好き勝手に振る舞うとしたら、士師記のような殺伐とした苦しみの時代に突入してしまう。
士師記の時代が、なぜ、殺伐とした時代になってしまったのか。
その理由は「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」からだった。(士師記21:25、17:6)

もしある人が「これは神に喜ばれるだろう」と思って、朝夕に冷水浴びを欠かさずするとしたら、それは神様に喜ばれるのだろうか?
答えは、ノーである。
なぜなら、「主に喜ばれるために冷水を浴びよ」などと聖書のどこにも書いていないし、むしろ、行いではなく信じる事こそ主は喜ばれる事が、聖書の至る所に書いてあるからである。

今の時代、私達が、主の御前に正しく礼拝を捧げるには、どのような手順を踏めば良いのだろうか。
それは、イエス・キリストを通して、である。
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』(ヨハネ14:6)

イエス・キリスト無き礼拝は、無効である。
イエス・キリストの名によらない祈りは、無効である。(ヨハネ14:13-14)
イエス・キリストの御名以外に、救いは無い。(使徒4:12)

モーセは、主を礼拝する時は、自分の家族だけでなく、自分のしもべやはしためも、そしてレビ人も、共に主を喜んで礼拝が捧げられるようにしなさい、と、命じている。
『そしてあなたがたのむすこ、娘、しもべ、はしためと共にあなたがたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。また町の内におるレビびととも、そうしなければならない。彼はあなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないからである。』(申命記12:12)
しもべやはしためには、自分の所有物が無い。そこで、彼らも主に捧げものが出来て、共に礼拝を捧げる恵みに与れるように命じている。
それはちょうど、親が、子供も献金を捧げられるようにと、お金を持たせるのと同じである。
また、レビ人は神に仕える働き人であり、地上の仕事を持ってはならない故、彼らも共に礼拝を捧げる恵みに与かるために、彼らを招くよう命じられている。

私達も、主が願っていた事を叶えて下さった時には、必ず、主の御前に戻って感謝の礼拝を捧げ、御前で喜び楽しむ事を忘れてはならない。
礼拝は、喜びであり、神と人とが共に交わり楽しむものである。
もし礼拝の中に、喜びも無いとしたら、それはどこか間違っている。
もし礼拝に「嫌さ」「窮屈さ」があるとしたら、それは主体が「主」にではなく、自分の「行い」になっているため、そこには何の意義も見いだせないはずである。
礼拝は本来、「主」が主人公であり、主に対する感謝と喜びに満ちたものである。
そして、主を喜んで礼拝するなら、日々の生活に喜びと力が湧き起こってくる。
『主を喜ぶことはあなたがたの力です。』(ネヘミヤ8:10)

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