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9:30 エヒウがエズレルにきた時、イゼベルはそれを聞いて、その目を塗り、髪を飾って窓から望み見たが、
9:31 エヒウが門にはいってきたので、「主君を殺したジムリよ、無事ですか」と言った。

主に背いていた二人の王を滅ぼしたエフーは、イゼベルのいるイズレエルの塔のような高い建物へと来た。イゼベルはエフーを前にへりくだるのではなく、外見を着飾って高いところから見下ろし、「主君を殺したジムリ」と呼んだ。

高い所に立ち、身を美しく飾り、傲慢な口をきくのは、サタンの性質である。主はそのようなサタンを地に投げ落とされた。

イゼベルの性質は、次の御言葉の真逆である。

1テモテ2:9 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。
 2:10 むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。
 2:11 女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。
 2:12 女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。
 2:13 なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。

イゼベルはこの後におよんでも身をかざり、髪を結い直し、善い行いとは真逆の人生を歩んできた。彼女は主の預言者に教えられる事なく、かえって殺し、夫であり王であるアハブの上に立ち、主の道に逆らう事を教えて来た。

このイゼベルのような性質を持つ者の行く先が、黙示録に記されている。

黙示録2:20 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
2:21 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。
2:22 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。
2:23 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。

イゼベルの性質は預言者と事象し、人々を教える立場、支配する立場に立って、人々を不品行に向かわせ、神に背を向けさせ、悔い改めの機会が与えられても心を頑なにして自分の悪い行いを改めない。そのような者に待っているのは、悲惨な主のさばきである。私達は、これを見て戒めを受けるべきである。


9:32 するとエヒウは顔をあげて窓にむかい、「だれか、わたしに味方する者があるか。だれかあるか」と言うと、二、三人の宦官がエヒウを望み見たので、
9:33 エヒウは「彼女を投げ落せ」と言った。彼らは彼女を投げ落したので、その血が壁と馬とにはねかかった。そして馬は彼女を踏みつけた。

ここでもエフーの言葉が権威を持ち、イゼベルに仕えてきた宦官はエフーの言葉に従ってイゼベルを突き落とした。かつてはアハブに対しまたイスラエル全体に対し言葉の権威をもったイゼベルだが、あまりに悔い改めないと、権威を失い、踏みつけられてしまうのだ。

箴言10:9 まっすぐに歩む者の歩みは安全である。しかし自分の道を曲げる者は思い知らされる。
10:10 目くばせする者は人を痛め、むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる。

9:34 エヒウは内にはいって食い飲みし、そして言った、「あののろわれた女を見、彼女を葬りなさい。彼女は王の娘なのだ」。

高いところから突き落とされて血をぶちまけたイゼベルを踏みつけ、その足で飲み食いできるエフーの立ち居振る舞いに何か野蛮さを感じる。彼はこの後も、野蛮とみられる事を沢山行う。

9:35 しかし彼らが彼女を葬ろうとして行って見ると、頭蓋骨と、足と、たなごころのほか何もなかったので、
9:36 帰って、彼に告げると、彼は言った、「これは主が、そのしもべ、テシベびとエリヤによってお告げになった言葉である。すなわち『エズレルの地で犬がイゼベルの肉を食うであろう。
9:37 イゼベルの死体はエズレルの地で、糞土のように野のおもてに捨てられて、だれも、これはイゼベルだ、と言うことができないであろう』」。

こうして主が語られた言葉が、ようやく成就した。まことにイゼベルは悲惨な最後であった。この出来事だけを見て、主は恐ろしい、と言う人がいるが、こんなイゼベルにさえも、どれほどの長い時間、イゼベルに対し、アハブに対し、悔い改める機会が与えられ、警告が与えられ続けてきただろうか。どれほど多くの預言者たちが主の警告を伝え、主が確かに生きておられるという証拠の奇跡を行って来ただろうか。しかしイゼベルはことごとくそれらを撥ね付け、自らの悪行を改めずに進んできた。それ故に、この悲惨な最後が彼女に見舞ったのだ。

私達は今、主から注がれている主の恵みの時を軽んじる事なく、主を愛し、畏れ敬う者でありたい。

主は、主を畏れ敬う人には豊かな恵みと祝福を注いで下さるからだ。

9:14 こうしてニムシの子であるヨシャパテの子エヒウはヨラムにそむいた。(ヨラムはイスラエルをことごとく率いて、ラモテ・ギレアデでスリヤの王ハザエルを防いだが、
9:15 ヨラム王はスリヤの王ハザエルと戦った時に、スリヤびとに負わされた傷をいやすため、エズレルに帰っていた。)エヒウは言った、「もしこれがあなたがたの本心であるならば、ひとりもこの町から忍び出て、これをエズレルに告げてはならない」。
9:16 そしてエヒウは車に乗ってエズレルへ行った。ヨラムがそこに伏していたからである。またユダの王アハジヤはヨラムを見舞うために下っていた。

北イスラエルのヨラム王と南ユダのアハズヤ王という、二人の、主の目に悪を行っている王たちが一つイズレエルという場所に集っている。イズレエルは、かつて彼らの父アハブによって無実の血が流された因縁の場所である。

エフーは主から王として油を注がれた事を秘めて、彼らの所に行く。

 

9:17 さてエズレルのやぐらに、ひとりの物見が立っていたが、エヒウの群衆が来るのを見て、「群衆が見える」と言ったので、ヨラムは言った、「ひとりを馬に乗せてつかわし、それに会わせて『平安ですか』と言わせなさい」。
9:18 そこでひとりが馬に乗って行き、彼に会って言った、「王はこう仰せられます、『平安ですか』」。エヒウ言った、「あなたは平安となんの関係がありますか。わたしのあとについてきなさい」。物見はまた告げて言った、「使者は彼らの所へ行きましたが、帰ってきません」。
9:19 そこで再び人を馬でつかわしたので、彼らの所へ行って言った、「王はこう仰せられます、『平安ですか』」。エヒウは答えて言った、「あなたは平安となんの関係がありますか。わたしのあとについてきなさい」。

ヨラムからエフーに遣わされた人は、ふたりとも、ヨラム王から王権をもって遣わされたはずなのに、エフーに従った。既にエフーに主に油注がれた権威があったからだ。

私たちも主イエス様を信じる信仰により、天国民とされ、王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされた民としての自覚を持ち、信仰をもって悪魔の勢力に対して宣言するなら、悪魔は従う以外に無いのだ。

ただし、主イエスに対する信仰を持たず、むしろ御言葉を軽んじ従順する志が無いなら、いくら悪霊に対してイエス様の名を用いても、逆にやられるのだ。あの、スケワの7人の息子達のように。

私たちの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができるのだ。(2コリント10:6)
 

9:20 物見はまた告げて言った、「彼も、彼らの所へ行きましたが帰ってきません。あの車の操縦はニムシの子エヒウの操縦するのに似て、猛烈な勢いで操縦して来ます」。9:21 そこでヨラムが「車を用意せよ」と言ったので、車を用意すると、イスラエルの王ヨラムと、ユダの王アハジヤは、おのおのその車で出て行った。すなわちエヒウに会うために出ていって、エズレルびとナボテの地所で彼に会った。

因縁のナボテの地所で、彼らは出会った。これは、主がなさった事であり、彼らがちょうどそこで出会うようにするために、主が伏線を張られていたのだ。

9:22 ヨラムはエヒウを見て言った、「エヒウよ、平安ですか」。エヒウは答えた、「あなたの母イゼベルの姦淫と魔術とが、こんなに多いのに、どうして平安でありえましょうか」。
9:23 その時ヨラムは車をめぐらして逃げ、アハジヤにむかって、「アハジヤよ、反逆です」と言うと、
9:24 エヒウは手に弓をひきしぼって、ヨラムの両肩の間を射たので、矢は彼の心臓を貫き、彼は車の中に倒れた。
9:25 エヒウはその副官ビデカルに言った、「彼を取りあげて、エズレルびとナボテの畑に投げ捨てなさい。かつて、わたしとあなたと、ふたり共に乗って、彼の父アハブに従ったとき、主が彼について、この預言をされたことを記憶しなさい。
9:26 すなわち主は言われた、『まことに、わたしはきのうナボテの血と、その子らの血を見た』。また主は言われた、『わたしはこの地所であなたに報復する』と。それゆえ彼を取りあげて、その地所に投げすて、主の言葉のようにしなさい」。

エフーとビデカルは、共に、かつてアハブと共に、その場面を見ていたのだ。すなわち、イゼベルの悪巧みによってナボテの血が不当に流され、彼の畑が不当に奪われ、そこがアハブ家の療養地となる様を。

そして、預言者エリヤがアハブに会いに来て、彼らは必ずこのイズレエルで血の報復が為されると預言した言葉を。

エフーは、その預言の言葉を聞いており、心に思い巡らしていたからこそ、ビデカルに「この預言をされたことを記憶しなさい。」と言ったのだ。

私達も、主の言葉を聞いてそれに心を留め、思い巡らしているなら、幸いな者として数えられる。

乙女マリヤは主が語られた事を思い巡らし、主が語られた事は必ず成就すると信じ切っていたからこそ、神からも人からも「幸いな人」と呼ばれたのだ。

 

9:27 ユダの王アハジヤはこれを見てベテハガンの方へ逃げたが、エヒウはそのあとを追い、「彼をも撃て」と言ったので、イブレアムのほとりのグルの坂で車の中の彼を撃った。彼はメギドまで逃げていって、そこで死んだ。
9:28 その家来たちは彼を車に載せてエルサレムに運び、ダビデの町で彼の墓にその先祖たちと共に葬った。
9:29 アハブの子ヨラムの第十一年にアハジヤはユダの王となったのである。

エフーは南ユダ王国の王アハズヤまでも殺した。こうして、アハブ王の時代から続いた南ユダ王国の悪い絆は断ち切られた。

主は、悪い絆の下で苦しんでいる主にある聖徒達の苦しみを覚えておられる。そして、時が来れば必ず、主の言葉は成就する。エリヤの時代から数えれば、かなりの時間が経ったと思われるかもしれない。しかしそれは、主は、悪人がその悪の故に滅びる事を望まれず、その人が悔い改めて立ち返る事を待っておられる故である。しかし人があくまで自分の悪の道を改めず、自分の悪い道を貫き通すなら、やがて主の時が来て、たちまちにその者は滅ぼされてしまうのだ。

私達は主の言葉が語られたなら、それを思い巡らし、それが成る事を待ち望み、時が来るまで忍耐し祈りつつ待つものでありたい。

9:1 時に預言者エリシャは預言者のともがらのひとりを呼んで言った、「腰をひきからげ、この油のびんを携えて、ラモテ・ギレアデへ行きなさい。
9:2 そこに着いたならば、ニムシの子ヨシャパテの子であるエヒウを尋ね出し、内にはいって彼をその同僚たちのうちから立たせて、奥の間に連れて行き、
9:3 油のびんを取って、その頭に注ぎ、『主はこう仰せられる、わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とする』と言い、そして戸をあけて逃げ去りなさい。とどまってはならない」。

エリシャがこのタイミングで一人の若者にこの命令をしたのは、主の時だからである。

この事の直前、8章の最後は、南ユダと北イスラエルの主の目に悪とされた王がイズレエルといういわくつきの土地に集っている状況である。イズレエルはかつて、ナボテという無実の人がアハブとイゼベルに罪を着せられ、無実の血が流された場所である。主の預言では、その場所でアハブとイゼベルに血の報復が為される、とかつて言われていた。主のタイミングの時、人にはぐずぐずしないでその通り従順する事が求められる。

 

9:4 そこで預言者であるその若者はラモテ・ギレアデへ行ったが、
9:5 来て見ると、軍勢の長たちが会議中であったので、彼は「将軍よ、わたしはあなたに申しあげる事があります」と言うと、エヒウが答えて、「われわれすべてのうちの、だれにですか」と言ったので、彼は「将軍よ、あなたにです」と言った。

英語の聖書を見ると分かるが、この会議の席は全員がキャプテンと呼ばれる人達の集いである。そこに「隊長」と呼ばれても、どの隊長なのか分からないので、このようなやり取りが為された。だから、この場では、この預言者である若者が一番身分が低い者ではあり、彼こそ震えおののくような状況であったかもしれないが、しかし彼は、主の御言葉を帯びて来ている。彼が主の御言葉をそのまま伝える限りでは、彼の言葉が最も権威を帯びる事が、後の出来事を見ると分かる。


9:6 するとエヒウが立ちあがって家にはいったので、若者はその頭に油を注いで彼に言った、「イスラエルの神、主はこう仰せられます、『わたしはあなたに油を注いで、主の民イスラエルの王とする。

彼はエリシャから伝えるよう言われていたのは、ここまでであった。しかし、彼はこの時、さらに主からの直接的な示しが与えられ、その場で主からの直接の言葉を、そのまま流し出す。

 

9:7 あなたは主君アハブの家を撃ち滅ぼさなければならない。それによってわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血と、主のすべてのしもべたちの血をイゼベルに報いる。
9:8 アハブの全家は滅びるであろう。アハブに属する男は、イスラエルにいて、つながれた者も、自由な者も、ことごとくわたしは断ち、
9:9 アハブの家をネバテの子ヤラベアムのようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにする。
9:10 犬がイズレルの地域でイゼベルを食い、彼女を葬る者はないであろう』」。そして彼は戸をあけて逃げ去った。

この事は、もっと以前の、エリヤの時から既に主から示されていた通りである。それが、この時、このタイミングで、エフーを通して成就する事が示されたのだ。

以上の主から示された事を伝え尽くすと、彼はその場から立ち去り、逃げた。

 

9:11 やがてエヒウが主君の家来たちの所へ出て来ると、彼らはエヒウに言った、「変った事はありませんか。あの気が変な人は、なんのためにあなたの所にきたのですか」。エヒウは彼らに言った、「あなたがたは、あの人を知っています。またその言う事も知っています」。

そこにいた人々は、預言者を「気が変な人」と見なしていた。

主の言葉を躊躇せず伝えたら、すぐに立ち去る事も躊躇しない。これはとても大事である。もし、彼が、ぐずぐずとそこに残ったならどうなっていたか、容易に想像がつく。

その場は将校達の会議の場であり、そこに一人の社会的地位の低い若造が残る、なら当然、将校達から「あなたは何者か」「どういう経緯で主の言葉を語るのか」と、彼自身が示されていない知らない事や、答えようがない追求をされ、物怖じする彼の様を見て、ついには、「気が変な人」の戯れ言として片付けられてしまうだろう。

御言葉を伝えたなら、いつまでも居残っている必要はない。むしろ、伝えるべき事を伝えてそこに居残り、別の人間の言葉を話し出し、御言葉の権威を犯す言葉をはびこらせてしまうなら、以前よりももっと悪い事になってしまう。しかし、宣言すべき御言葉を宣言して去るなら、その場に残った御言葉が、あとはその場を支配する事になる。私たちは、自分のの力で御言葉の権威づけを建て上げようなどと、考えない事である。

9:12 彼らは言った、「それは違います。どうぞわれわれに話してください」。そこでエヒウは言った、「彼はこうこう、わたしに告げて言いました、『主はこう仰せられる、わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とする』」。

9:13 すると彼らは急いで、おのおの衣服をとり、それを階段の上のエヒウの下に敷き、ラッパを吹いて「エヒウは王である」と言った。

奇跡が起こった。気違いと思われていた人の言葉が、主の権威を帯び、そこの人々の心を支配したのだ。

このように、御言葉をそのまま語り、そこに残すなら、あとは御言葉がその人、その場を支配するのだ。

8:16 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第五年に、ユダの王ヨシャパテの子ヨラムが位についた。
8:17 彼は王となったとき三十二歳で、八年の間エルサレムで世を治めた。
8:18 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪をおこなったが、
8:19 主はしもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである。

ヨシャパテは素晴らしい信仰の持ち主であったのに、悪と手を組んでしまったゆえに、イスラエルに災いをもたらしてしまう。

彼は自分の息子の嫁として、アハブとイゼベルの間に生まれた娘、アタルヤを迎え、息子に嫁がせてしまった。これが後に、イスラエルにとんでもない災いをもたらしてしまう。

このアタルヤは、後に、ダビデの子孫を根絶やしにしようと、一人を除いて皆殺しにしてしまう。そして彼女自ら女王となって、暫くイスラエルを治める事になる。

とにかくこの時点、彼女は、夫であるヨラム王をそそのかし、主の目に悪と見られる事を行い、また彼女の息子も悪の道に歩むように育ててしまう。

8:18 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。

イスラエルの王達の道、それは偶像礼拝の道であるが、異邦の女をめとった事によって自分の国に災いをもたらしてしまった、という点でも同じであろう。

神の宮と偶像とに、何の一致も無いはず。友達づきあいが悪ければ本人も悪くなり、ひとつとなるべき伴侶が悪いと、自分自身のみならず自分の子々孫々に至るまで災いをもたらしてしまうのである。

 

8:20 ヨラムの世にエドムがそむいてユダの支配を脱し、みずから王を立てたので、
8:21 ヨラムはすべての戦車を従えてザイルにわたって行き、その戦車の指揮官たちと共に、夜のうちに立ちあがって、彼を包囲しているエドムびとを撃った。しかしヨラムの軍隊は天幕に逃げ帰った。
8:22 エドムはこのようにそむいてユダの支配を脱し、今日に至っている。リブナもまた同時にそむいた。

主から離れると、自分自身から権威がなくなり、自分の配下にいた者が力を持つようになり、敵が力を持つようになる。事は、申命記28章に書いてある通りである。

8:23 ヨラムのその他の事績および彼がしたすべての事は、ユダの歴代志の書にしるされているではないか。
8:24 ヨラムはその先祖たちと共に眠って、ダビデの町にその先祖たちと共に葬られ、その子アハジヤが代って王となった。
8:25 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第十二年にユダの王ヨラムの子アハジヤが位についた。
8:26 アハジヤは王となったとき二十二歳で、エルサレムで一年世を治めた。その母は名をアタリヤと言って、イスラエルの王オムリの孫娘であった。
8:27 アハジヤはまたアハブの家の道に歩み、アハブの家がしたように主の目の前に悪をおこなった。彼はアハブの家の婿であったからである。

ヨラムの子アハズヤの治世は、わずか一年であった。主を敬わない世代がはびこりその勢いを増し加えようとするなら、主が許されない。なぜなら、主は主を敬わず偶像に走る者には呪いを3第4代に、しかし主を恐れ敬う者には恵みを千代に施されるお方だからである。

この時、南ユダ王国は、ただ主のダビデに対する恵みの故に首がつながっている状態だった。

8:28 彼はアハブの子ヨラムと共に行って、スリヤの王ハザエルとラモテ・ギレアデで戦ったが、スリヤびとらはヨラムに傷を負わせた。
8:29 ヨラム王はそのスリヤの王ハザエルと戦うときにラマでスリヤびとに負わされた傷をいやすため、エズレルに帰ったが、ユダの王ヨラムの子アハジヤはアハブの子ヨラムが病んでいたので、エズレルに下って彼をおとずれた。

ユダの王アハズヤが北イスラエル王国に下っていったのは、主が懲らしめの杖を振り下ろすためである。主は、立ち返らせようとして、懲らしめを送られる事があるが、それは正しい道に立ち返らせるためである。

結局、南ユダ王国は、このイゼベルの娘、異邦の女を王家の嫁として迎えてしまって以来、ただ災いにつぐ災いの時代に突入してしまう。北イスラエル王国も、イゼベルを迎えて以来、そうだった。ノアの洪水も、神を知らない女との結婚が原因でもたらされてしまった。ソロモンも、そうだった。

彼らがもたらした偶像礼拝は、その後ずっとイスラエルの歴史に尾を引き、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。それでも主の憐みにより、70年の後に帰って来たというのに、すぐまた異邦の女をめとって、同じ過ちを繰り返しそうになった。そこをエズラが改革を断行し、異邦の女や御言葉を知らない子供を国から追い出した。それは身を切るような辛さであったろうが、そこから暫くの平和な時代が始まった。
主は、私達が滅びに至らないよう、「災い」という囲いを用意して、祝福への門を開いておられる。

私達は本当に、結婚したり連合したりすべき相手には気をつけるべきである。

「ですから」あなたがたの労苦が無駄になることはない(1コリント15:58)
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週報/メッセージ(説教)概要

 先週のコーエン大学日本公開セミナーは沢山の恵みの内に終った。今回は、コーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も忙しい間を縫って来られ、水曜夜の集会ではメッセージもされた。カン先生は今まで多大な労苦と責任を負って来られたが、彼が今に至るまで支えとなって来た言葉が、本日の御言葉である。
『だから(ὥστε(ホステー)、愛する兄弟達よ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦(κόπος:コポス)がむだになることはない…。』(1コリント15:58)

この御言葉は、接続詞「ὥστε(ホステー:ですから、そういうわけで、therefore)」で始まる。これは、直前までの物事を束ね、「そういうわけで」こうなる、と、後に続ける言葉である。物事には原因と結果があり、その両者を「ホステー」が繋げる。今の私達は、良しにつけ悪しきにつけ過去に成した一つ一つの「原因」を積み上げた結果がある。そして、今私達が為す一つ一つの行いは、将来生み出される結果の「原因」となる。
だから、1コリント15章の最後の節の「ですから」は、1節から57節までを包括し、58節に繋げているのだ。
第一コリント15章といえば、復活と希望の章である。人は死んだら終わりではない。死んだ後、必ずよみがえらされ、そしてそれぞれのの行いに応じて審判を受ける。天国も、地獄も、確実に存在する。
パウロは、次の事を「最もたいせつな事」としている(3節)。すなわち、キリストは私達の罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられ、ケパに現れ、それから12弟子にもあらわれ、そして最後に、最も小さなこの自分にも現れて下さり、そして、神の恵みによって今のわたしになった(3-11)。これは私達にも同じである。
「ですから」、固く立って主のわざに励む必要がある。そして、その労は一つも無駄に落ちる事は無い。
主にあって労苦した事(コポス)は、決して無駄になる事は無い。キリストに敵対する世の諸々の事柄が、群れをなして、自分へと襲いかかって来た時。あの時流した汗や涙も、主にあって忍耐し続けた一瞬一瞬も、決して無駄に落ちる事は、無い。「ですから」今、目の前に置かれた善を行う事に、疲れてはならない。
たゆまないで働いているなら、時が来れば、必ず刈り取るようになるからだ(ガラテヤ6:7−9)。
「ですから」、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい、とパウロは続ける。海がどんな暗くても、灯台の光を目指し、進み続けるなら、必ず目的の港に入る事が出来るように、キリスト者にはそれぞれ、暗闇に輝く灯台のような、目指して行くべき御言葉が必要である。もし、そのキリスト者に、それを「見続ける力」があり、それに向かって「進んで行く事を止めない」なら、必ず主の栄光の領域へと到達して報われる。

「ここに、聖徒たちの忍耐(ヒュポモネー)と信仰とがある。」(黙示録13:10) この忍耐(ヒュポモネー)は、農夫が、「下に(ヒュポ)」+「ひざまづいて(モネー)」、蒔いた種の実りを待つものであり、「嫌々ながら」のような消極的な色合いは無く、むしろ希望をもって楽しみに待つような、積極的な色合いのある言葉である。
忍耐と希望は、必ずセットである。ヘブライ思考的には、「希望」には、未来を目の前の今へと引っ張る力のあるものとしている。だから、種を蒔いたら「5年後には、もしかしたら実がなるかなあ?」ではない。
蒔いたら、5年後には実がなって、喜んで刈り入れをし、おいしく味わって食べている事を、「今日のように見て待つ」のだ。時間を先取りし、引っ張てきて、今ここにあるかのように見えるから、期待して待てるのだ。
信仰とは、見えないことの「保証」である。未来に起きるか起きないか定かでないような、おぼろげな事柄ではなく、未来に確実にある事柄を、まだ見てはいないけれども今、手元に引っ張って来る事なのだ。
それは、預金通帳に何千億円も入っていると記帳されている事に似ている。もしそうなら、日々食べる事について心配する必要は無いし、ビルを購入する事にさえも、何の躊躇もいらない。同じように「御言葉」の明細を見るなら、私達は何を食べようか何を着ようかと心配する必要は一切ないはずであり、その富を引き出すために、「信仰」という印鑑を持って、「行い」という銀行へ足を運んで行くのみである。
世の銀行、世のマネーは、何百年後には破綻しているとしても、神の言葉は、永遠に破綻しないからだ。
原因には、必ず結果がつきまとう。それは、良しにつけ、悪しきにつけ。労苦(コポス)には必ず良い報酬が返って来るのと同じように、労苦の逆である「なまける事」にも、必ず悪い報酬が返って来る。
「ですから」主が与えて下さる莫大な報いが将来に待っている事を、あたかも今、それを受けているかのように望み見、喜んで、今日与えられている一つ一つの事を、気落ちする事なく、希望をもって成していく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

暗闇の地に照り渡る光(イザヤ9:1-7)
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私たちが食べる御言葉の性質(出エジプト記16:15-21)
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御言葉を食べて養いを受けなさい(黙示録10:8-11)
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キリスト・イエスのりっぱな兵士として(2テモテ2:1-7)
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ヘブライ思考とは(ローマ12:1-2)
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週報/メッセージ(説教)概要

 明日よりコーエン大学日本公開セミナーが始まる。今回はコーエン大学設立総長のカン・シンゴン博士も教鞭を執られる。そこで今日、講義に先んじて、博士が繰り返し強調して来られた「ヘブルシンキング」と、ユダヤ的聖書へのアプローチ方法を学びたい。まず前提知識として知っておかなくてはならないのは、「ヘブライ思考」と、それと対極に位置する「ギリシア思考(ヘレニズム思考)」の概念と性質である。

ユダヤ人は代々「ヘブライ思考」で生き、聖書もヘブライ思考に基いて読まれて来たが、聖書執筆時代以降のキリスト教会は「ギリシア思考」によって歩み、福音に混ぜ物がされ、分裂の歴史を辿ってしまった。
ヘブライ思考の一番の特徴は、「神中心」である。対し、ギリシア思考は「人間中心」である。ユダヤ人は神を価値の最高位に位置づけ、自分を神の御言葉へと合わせて生きるが、対してギリシア思考では、人が構築した論理や科学を土台とし、あるいは神とキリストを除外した宗教や、無神論や汎神論を台頭させた。
第二のヘブライ思考の特徴は「関係中心」であり、神との関係・親子関係・共同体との関係を重視する。
ユダヤでは、「父と子」という深い関係が、神に、親に、共同体に対してある。対しギリシア思考は「個人主義」であり、親子関係・社会関係は崩壊し、孤立、引き籠もりが起こり、人を破壊行為や自殺へ追い込む。
第三のヘブライ思考の特徴は「直感的思考」だが、対してギリシア思考は「理知的・論理的思考」で「納得」を求める。ギリシア思考が聖書を理知的に分類し、分析して考察した結果、キリスト教会は幾つも分裂したが、対してユダヤ人は2500年も離散していたのに、1948年に帰還すると、いとも簡単に一致できた。それは彼らは聖書に自分の解釈を交えず、ただ繰り返し読んで、暗記し、直感的に体得していたからだ。
第四のヘブライ思考の特徴は「動的思考」である。ヘブライ語は動詞中心の原語である。ヘブライ語動詞は、基本的に三つの文字からなる「語根」で成っており、その語根の前後に他の語を付与する事によって、様々な意味へと変化する。ユダヤ人は、御言葉は生きているものとして動的に解釈し、同じ御言葉でも朝ごとに新しいが、対してギリシヤ思考は「静的思考」で、対象を分析・分類し、標本箱の中へ磔にして納めたら、もう動かさない。一つの御言葉に「これこれの解釈」と決め付けたなら、それ以外を排斥するのだ。
第五のヘブライ思考の特徴は「意味中心」である。ヘブライ語は人の名前にも地名にも、そして一字一句にさえ、全てに意味がある。それは昨年12月にベレシートを学んだ時によく味わった。文字と文字が組み合わさて意味が生まれ、個々の意味に配置された神の秩序の完全さに人は感動し、喜びを覚えるのである。ギリシア思考は一見、意味を追求しているように見えても、行き着く先は「無意味」である。

以上、5つの組み合わせを、カン博士は「ヘブライ思考のエバディング(embodying:具現、体現)」と呼んでいる。そして、ヘブルシンキングによる聖書へのアプローチは、3つの核によって成り立つ。
一つ目は「統全(wholeness)」と言う。これは全体を一つとして見る事である。つまり、聖書を開く時にはまず全体を見る。一語一語を細かく分析せず、分からなくても、まず最後までそのまま読むのだ。
二つ目の核は「統合(unity)」、すなわち異なる幾つかの断片を一つに集め調和させる事である。聖書は律法や預言、詩歌など異なる断片の集合だが、一つ一つを別者としてではなく調和したものとして捉える。
そして三つ目の核が「統摂(consilience)」で、それは、複数の個々は互いに溶け合い、第三の新しいものを生み出す事(シナジー)である。「統合」は個々が調和していても互いに別者だったが、「統摂」は、個々はもはや無くなり、別の新創造が生まれるのだ。元々、consilienceの原意は、異なる二つのものが互いに手を取り合って境界線を飛び越え、新しい領域に着地する「ジャンピング・トゥゲザー」の意味である。
以上のように、聖書全体を行ったり来たりして部分部分を集め、互いを融合し、自分自身に融合させる事によって、全く新しいいのちが生まれるのである。例えば「贖い」という言葉は、聖書の一箇所だけ見ても分からないが、創世記やレビ記、ルツ記など、あちらこちらを行ったり来たりする内に、神の意図が感覚的に分かって来て、自分自身の人生に組み込まれた「贖い」を感じ、感動し、自分のものとなって行くのだ。
『あなたがたの「からだ(ソーマ:霊・魂・肢体の全集合体)」を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1) 自分を主張するのでなく、自分自身の全てを生きた供え物として御言葉へ混ぜあわせる事、これが私たちの為すべき礼拝である。
ギリシア思考は捨て、ただ御言葉を自分と混ぜあわせ、真理の喜びが沸き起こる皆さんでありますように!

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