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主日礼拝
預言されていた真の王の性質(イザヤ9:1-7)
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週報/メッセージ(説教)概要

 この待降節第三週は、キリストはどのようなお方として現れるのかを、第五の福音書とも呼ばれているイザヤ書から見たい。イザヤはやがて現れるメシヤがどのようなお方であるのか、700年前に啓示を受けていた。
 
 『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子が我々に与えられた・・・そのまつりごとと平和とは「増し加わって(לםרבה レマルベー)」限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。』(イザヤ9:6-7) 有名なメシヤ預言であるが、原典の巻物は「増し加わって」の所が法則を破った形で記されている。ここの二番目の語メム(ם)は、通常形の開いたメム(מ)で記されなければならないのに、敢えて語末形の閉じたメム(ם)で代々記されて来た。
 なぜイザヤはそのように記したのか、ラビ達には代々ミステリーだった。ただラビ達は、開いたメムは開かれた胎を、閉じたメムは、閉じられた胎と理解している。イザヤはなぜ「法則破りのメム」を用いつつ、「主権と平和は増し加わる」と書いたのか。それは神は、処女という「閉じた胎」に、聖霊によってみごもらせ、そのみどりごの主権と平和は、法則破りの形で増し加わって行く、という事を啓示しているのではないだろうか。
 
 この来たるべきみどり子、ダビデの王座に座す王は、世の王達とは全く違った法則破りの王となっていく。
この王は、通常の世の王と、どう違うか。世の王は、人々の上に立って権力をふるい支配するが、神の国の王たる者はそうであってはならない、と イエス様は言う。神の国における王たる者は、皆に仕える者、しもべになりなさい、と。『人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』(マタイ20:28)
 主が立てたダビデ王も、そうだった。彼がサウル王に追われている時、彼の元には、困窮した人、負債を負っている人、心に苦さを覚えている人達が来た(1サムエル記22:2)。このダビデ王でなければ養えない、この王でなかったら保護されない、この王がなかったら、慰めを受けられない、そういう、一寸先が見えない人達がダビデの元に集まって来た。よりによって、サウルに命を狙われ、優れた人材を欲している時に。
 しかしそれが、ダビデを「真の王」にするための、主のトレーニングだった。たとえ苦しい状況の中にあったとしても、そんな彼らを、嫌がらずに受け入れ、彼らと共に、諸々の歩みを一緒に味わっていく。それはまさに羊飼いの性質である。アブラハムもモーセも、信仰の先人たちは皆、一様に羊飼いを経験したのだ。
羊飼いとして、弱くおろかないのちを養う者の姿勢こそ、主が求める真の王の姿であり、そして真の王・真の羊飼いであるイエス・キリストの性質である。ダビデは、そのように集った600人を受け入れ、共にサウルから逃れつつ、共に訓練を受け、そしてダビデが王になった時、彼らは優れた勇士になっていた。
 対してサウル王は、世の王と同様、自分の元に優れた有能な人々をはべらせ、王権を堅固なものにした。
一見すると、ダビデの群れは、サウルの軍団にたちまちやられてしまうかのように見えるが、実質、ダビデの群れはいつでもサウルの軍団の一歩先を行っていた。主にとっては、ダビデのような羊飼いの群れを、サウルのような者から守るのは、当然の事だった。主は私達にも、まず羊飼いである事を求めておられ、そして羊たちを養うのに十分な力を与えてくださる。私達もこの時代、ダビデのように、御前でへりくだった者となり、そしてゴリヤテのような敵・サタンに対しては凛々しく立ち向かって勝ち得る者となるべきである。
 
 このダビデの王座に座す王・メシヤなるイエスこそ、王の中の王である。イザヤは幻の中で、闇を完璧に吹き飛ばす偉大な光としてメシヤを見、それはガリラヤから輝き上る、と記した(イザヤ9:1-2)。ガリラヤはちょうど、イエス様が福音宣教を始められた所である。そこには、病を負い、悪霊に虐げられ、苦さを覚えている「闇の中を歩んでいた人達」があふれた所であったが、そこにイエス・キリストという大きな光が照った。
 キリストに照らされ、キリストに歩む人達はやがて増えて行き、彼らの喜びを増し加えられ、豊かな刈り入れを喜ぶように、または分捕り物を分けるときに楽しむように、御前で喜ぶ(3節)。そして、彼らの重荷も、肩のむちも、虐げる者の杖も、粉々に砕かれ、互いが互いを傷つけ、血を流し、戦いながら生きて来た今までの歩みも、火のえじきとして終わらせて下さる(5節)。それが、処女から生まれる「ひとりのみどりご」である。
 このアドベントの時、ダビデのように、主の前につつましく、しかし敵に対しては凛々しく立つ羊飼いとして、真の王の性質を身につけて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

主日礼拝
神と人とが一つになるための条件:アーメン(ルカ1:26-56)
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週報/メッセージ(説教)

 マリヤは『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』と信仰告白した(ルカ1:37-38)。主のご到来を待ち望むこの時、私達はどのような態度で待ち望むべきか。今回はマリヤから学びたい。
 
 前回、ザカリヤは、主の言葉を信じず、「私は何によってそれを知ることができましょうか」と、自分が理解する事を求めたため、口が閉ざされてしまった。それに対しマリヤは、神のことばが「成るように」と言って、主の言葉を100%受け入れた。エリザベツはそんな彼女を評価する。『あなたは女の中で祝福されたかた・・・ 主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう』(42-45節)
マリヤも言った。『今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう』(48節) 全世界・全時代で一番幸いな人とは、神のことばを100%受け入れる人、すなわち、神の言葉に「アーメン」する人である。
神の言葉に対するアーメンは、本人自身と神の言葉とを「ひとつ」に結びつける意思表明である。
 マリヤは主を賛美している。『主は、憐れみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けて下さいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえに憐れむと約束なさった通りに。』(54-55節)
 主が助けて下さる相手は、「イスラエル」である、とマリヤは言った。「イスラエル」の名の意味は、神と苦闘する、すなわち、神と粘り強く関わろうとする人である。全て神と必死で関わろうとする人は、イスラエルであり、また、主がとこしえに憐れむ、と約束された相手は、「アブラハムとその子孫」である。私達も、神に粘り強く関わろうとし、また信仰の父・アブラハムの「子孫」となるなら、神は私達に憐れみを注ぎ、助けて下さる。
 
 私達の信仰の父・アブラハムは、なぜ義とされたか。それは、神の約束に対しての「アーメン」によった。
「アブラムは主を信じた(アーマン)。主はこれを彼の義と認められた。」(創世記15:6) ここのアーマンはアーメンの元となる動詞で、「建てあげる、サポートする、忠実にする、看護する」の意味もある。
また、この箇所では使役態が用いられているので、「アブラムは(自分自身を)主へと信じさせた」と訳せる。
 人が義とされるのは、本人自身の意思をフル稼働させ、自らを主へと信じさせ、自ら、主の言葉をサポートし、建てあげる事による。ダビデが『わがたましいよ、主をほめよ』と、たとえそのような気分でなくとも自分のたましいに言い聞かせ、主をほめたたえたように、自らを信じさせる事が、神に義と認められるのである。
 神の言葉は、にわかには信じ難い事ばかりである。そんな事は有り得ない、と思えるような事でも、自分の納得や理解は投げ捨て、神の言葉への「その通りです」を自分の中に建てあげ、自分自身を神の言葉と結びつけるなら、そのアーメンによって神の力のエンジンがかかり、絶対起こり得ない事が実際に起きる。
 しかし、ザカリヤのような、「わたしが理解できるよう証拠を見せてください、それなら信じます」と言うような心構えなら、前回見た通り、「口を閉ざされてしまうしるし」が与えられ、強制的に黙らされてしまうのだ。
 マリヤは彼女の讃歌の中で、主は、頭が自分の思いで凝り固まった者を追い散らされる、と歌っている。
 『主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし・・・富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。』(51-53節) 主は、神の言葉を押しのけて、自分の思いを優先させ驕り高ぶっている者は、追い散らし、傲慢に富んでいる者は、何も与えないまま帰させる。
 
 期待しない、アーメンしないけど、祝福されている信仰者にはくっついて行って、利益を得ようとする者も、ちゃっかりと祝福を受ける。ロトは主とくっつく事はしないまま、祝福されているアブラムと行動を共にしてお金持ちになったが、結局、自分の目で見て良いと思う方に進んで行った。それで彼は、アブラハムと別れた後は、ただ落ちぶれるだけであったが、逆にアブラハムは、ロトと別れると直ちに祝福が増し加えられた。
 100歳のアブラハムに子が与えられたのは、100%神の力によった。マリヤがイエス様を身ごもったのも、100%神の力によった。いずれも、自身のアーメンの言葉によって神の力が働き、現実世界を動かしたのだ。
 聖書の一番最後は、聖徒による神の約束へのアーメンで締めくくられる(黙示録22:20-21)。創世記から黙示録までの、神の言葉の全てに対して「アーメン」があればこそ、聖書は、人を罪と死から救い、永遠のいのちを生きる神の力が発生するが、信仰者の側にアーメンが無いなら、ただの本に過ぎなくなってしまう。
 マリヤのように、アブラハムのように、神の約束に積極的にアーメンし、自分自身と神の言葉をひとつに結びつけ、神のわざの実体が現れる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 

 

第二テモテ 講解説教 水曜夕礼拝
汚れた言葉から離れよ(2テモテ2:14-22)
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エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
エレミヤ書という失敗談(エレミヤ52:12-23)
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1列王記9:1-9
黙示録3:11-13
 

早天礼拝
とりなしによって罪が赦され癒やしが起きるメカニズム(ルカ5:17-26)
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昨日、働き人のお父さんの癒やしと、ご家族に福音を伝えるために、伊豆の病院へ向かった。
ICUは家族親類以外はだめなので、行っても中に入れるかどうかは分からなかったが、祈りつつ行ってみると、主の特別なはからいがあり、許可をいただいて入ることが出来た。
のみならず、通常は30分ほどしか許されていないICUの面会なのに、1時間半ほど居ても大丈夫で、じゅうぶん祈る事が出来た。
 
御言葉を耳元でささやくと、反応があった。
3人で手を置いて祈っていたら、冷たかった所が温かくなって来た。
また、体内に溜まって悪さをしていたガスが、口から「ゴポッ」と音を出しながら出て行っていた。
体は意識不明であっても、霊は確かに生きている。
霊と肉は、別物であるから(マタイ26:41)、意識不明であったとしても、信仰をもって語りかけるべきだ。
 
本人の信仰や祈りは0%でも、第三者の信仰やとりなしの祈りが100%で、癒やしが起きたケースが、聖書に幾つかある。
百人隊長のしもべの癒やし、会堂管理長ヤイロの娘など。これらの癒やしは、どのようなメカニズムで起きるのか。
 
次の御言葉を注目したい。
 
ルカ5:20 イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
 
彼ら、それはこの中部病の人を運んだ4人である。イエス様は彼らの信仰を見て、「人よ(単数)」あなたの罪(複数)は、ゆるされた、と言った。
ここも、4人のとりなしのわざによって、イエス様に運ばれて、イエス様から罪のゆるしと、いやしのわざをいただいたケースである。
 
癒やしと、罪のゆるしは、切っても切り離せない関係がある。
 
ヤコブ5:14 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
5:15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
5:16 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
 
罪のゆるしが起きてから、癒やしが起きる。ローマ6:23 罪の支払う報酬は死である、と書いてある。
 
原罪があるから罪々を犯し、病が起き、死ぬ。
犯してしまう罪々は、サタンにつかまれてしまう「取っ手」のようなもので、罪々を抱え持っているなら、サタンに掴まれ放題である。
しかし、罪の問題が解決されるなら、サタンの取っ掛かりはなくなり、病や死がその人を掴む理由を失い、いやしが、救いが湧き起きるための取っ掛かりを得る。
そして、その、第三者の罪の問題を解決させるのが、愛である。
 
中風病の人を担いだ4人のわざも、百人隊長のケースも、会堂管理長のケースも、全て、愛がいやしの原動力だった。
 
1ペテロ4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」
 
だから、愛をもったとりなしによって罪は覆われ、罪が覆われたなら、死が、サタンが取っ掛かりを失って、病は、簡単にはがれるようになる。
そして、癒やしが起きるのである。
 
ローマ6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
 
上記箇所の「罪」は単数形で、原罪、諸々の罪の根っこと言える。
罪々は愛のとりなしによって覆われても、この、原罪を取り扱えるのは、ただ主イエス・キリストの賜物(100%与えられるもの)であり、イエス・キリストを信じる事によってしか、救いは得られない。
 
だから、熱心に愛し合い、また、祈る事、聖徒の交わりが重要である。
私達が救われたいと願っている人が、イエス・キリストから罪のゆるしと癒やしをいただけるように、その人を運んで、屋根をはがして、4隅を吊るして、でも、イエス様の元に導くわざを、今日も、これからも行っていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝
主のご到来を待ち望む心構え(ルカ1:5-80)
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週報/メッセージ(説教)概要

 アドベント(待降節)が始まった。それは主の「ご到来(アドベントゥス)」を待ち望む期間である。この期間、どのような態度で、主の「ご到来」を待ち望むべきか。バプテスマのヨハネ、すなわち、荒野で叫ぶ者の声として人々をイエス・キリストへ導いた彼を生み出した彼の親、ザカリヤとエリサベツの夫婦から学びたい。
 
 イエス様のご降誕に先がけ、最初にしるしが現れたのが、ザカリヤとエリサベツの老夫婦である。この夫婦は、御前に正しい人であった。しかし彼らには、子がなかった。結婚した当初から、ずっと子が与えられるよう祈っていたが、与えられない。歳を取るにつれ、その祈りはますます切なるものとなって行っただろう。
彼らより、遥かにいいかげんに生きている人達には、どんどん子が生まれ成長して行くのに、彼らだけ与えられない。いよいよ産むのが難しい年齢に達しても、彼らは誰よりも御前にも凛々しく立ち、戒めと定めを落ち度なく行い、祈っていた。そんなある日。聖所で香を捧げる役が、くじで、ザカリヤに当選した。
 皆が祈る中、その役を果たすために、彼が聖所に入った所、なんと、香壇の右に主の使いが立っているではないか。恐怖に襲われている彼に、御使いは言う。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節)
 長年祈り続けてきた「子が与えられる」。それは老夫婦の悲願であったが、神は、単に願望をかなえる以上の事を、ご計画されていた。その子は、御前に大いなる者となり、イスラエルの多くの子らを主に帰らせ、エリヤの霊と力をもって、御前に先立って行き、整えられた民を主に備える、というのだ。(14-17節)
 人は、子を産む事を願うが、単に産めば良い、というものではない。神から託された命を、いかに神の栄光をあらわす子として育てるかが大事である。主は、敢えてザカリヤ夫婦に、長年子を与えない事によって、彼らを祈らせ、御前に凛々しく立たせ、戒めと定めを落ち度無く行う事によって霊性を培い、長年そうする事によって、この夫婦を、バプテスマのヨハネの親として整えて行ったのだ。
 『どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』(18節)
彼は、せっかくの喜ばしい主からの言葉を、そのまま信ぜず、自分が納得する事を求めてしまった。
そのような人に与えられるしるしは、「ものが言えなくなる」しるしである。いかに聖所の中で御使いと出会い、重要なお告げを頂くような奇跡を経験をしたとしても、不信仰な唇を継続するなら、逆に、良くないのだ。
 彼はある日、突然、口がきけなくなった。それ以降、夫婦生活では言葉を発せず、筆談だったが、かえって雑多な言葉を出す口が閉ざされた方が、遥かに良い結果をもたらすのだ。エリサベツは、身ごもった。
 
 「さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。」(57節) ザカリヤにいよいよ念願の子が生まれた。
人々はその子に、父と同じ名をつけようとした(59節)。ザカリヤとしても、ようやく生まれた子に、自分自身の名をつけたかっただろう。しかし、主はあらかじめ「その子をヨハネと名づけなさい」と命じておられた。
 ザカリヤは、自分や他人の望みを手放し、ただ、主が命じられた通り、「その子の名はヨハネ」と公に示したその瞬間、彼の口は開かれた。そして、真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美と、預言だった。
 ザカリヤは、自分の子についての願望や思いを、特に、「自分が納得する事」を降ろし、100%、主の御旨が成るように、と求めた時、主の素晴らしさがハッキリ分かり、その口からは賛美が、また、主の言葉が出て来た。主の思いは、人のちっぽけな思いよりもはるかに高く、素晴らしい。それに引き換え、人が握りしめる願望は、なんと小さく永続しないものだろう。それを知る時、ただ主の御旨が成る事だけを求めるのだ。
 
 『さて幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。』(80節)
ヨハネもまた、主が定めた時に至るまで、自分の唇を閉じた。ヨハネ(イェホハナン)の名には、「主の恵み」「主の好意」という意味がある。悔い改めてバプテスマを受ける者に、主の恵み・主の好意が注がれるのだ。
 なお、ザカリヤ(ヘブライ語:ゼカルヤフ)は「主を覚える」の意味があり、エリサベツ(エリシャブア)は「誓いの神」の意味がある。すなわち、「主の誓い」に対し、「主を覚える」事を結婚させ、御前に誠実に歩み続ける者にこそ、主の好意が生まれるのだ。 主の御業が成されるまで、自分の納得・自分の意見を言いたい唇は閉じ、理解したい思いは手放し、ただ御言葉に従順して誠実に待ち望み、御業が成された時には、真っ先に主をほめたたえる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

早天礼拝
永遠に残る記念の日々を捧げていこう(ヨハネ12:1-11)
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第二テモテ 講解説教 水曜夕礼拝
必ず用意されている忍耐と労苦へのReward(2テモテ2:1-13)
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エレミヤ書 講解説教 水曜昼礼拝
エレミヤ最終章:エンドロール後に挿入された悲しいショートストーリー(エレミヤ52:1-11)
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エレミヤ27,28章
哀歌2:8-14,20
 

早天礼拝
主が立てた指導者に逆らい続けたユダヤ人(使徒7:22-43)
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ヨハネ19:15
ヘブル3:1-6
ユダ9
 
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