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サタンによって徹底的に苦しめられるヨブ(ヨブ記2章)
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2章でも、サタンが同じように登場する。

2:1 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
2:2 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。

サタンは1章では神の子達に混じって主の会議に来たが、ここで再びサタンが主の前に来て、御前に立った。
地を行き巡り、ヘブライ語でシュートという言葉は、徘徊する、行ったり来たりする意味で、イスラエルの民がマナを拾い集める際に(民数記11:8)、また、ダビデがサタンにそそのかされてヨアブに命じ、ヨアブが地を行き巡ってイスラエルの人数を数えた時に用いられた語である。
サタンが地を行き巡るのは、食い物にする「ちり」に過ぎない人間を見つけるため、また、ヨブのような聖徒を訴える口実を探すためである。
サタンの性質について、黙示録に記されている。

黙示録12:9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
12:10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。
12:11 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
12:12 それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。

サタンは兄弟姉妹を訴える者、彼らを惑わし、主を呪わせ、主から離れさせる者である。それで天から投げ落とされた。
そして私達がサタンに勝利するすべは、12節に書いてある通り、小羊の血と、あかしの言葉によって、である。
ヨブは、素晴らしいあかしの言葉によって主に栄光を帰し、サタンの面目を失わせたが、サタンはそれでも引き下がらなかった。
ヨブは確かに素晴らしい信仰の持ち主で、なおも主の前に唇で罪を犯さなかったが、小羊の血なき人間は、いかにヨブのような「義人力」が強い人でも、最終的には籠絡してしまうものである。
私達は、ほふられた小羊キリストの血をもって、あかしの言葉で悪魔サタンに対抗しなくては、勝利できないのだ。

2:3 主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

主はサタンに対し、なおもヨブへの賛辞の言葉をかけている。
しかしサタンはなおも、ヨブを訴えたいのだ。

2:4 サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。
2:5 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
2:6 主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

主はなんと、こんなにも誠実を尽くしたヨブに対し、サタンに、彼の身体に手を加える事を許可する。
人はこれを、わからない、と言う。
しかし私達は、途中だけの議論をし出すと、延々と出口の無い迷路に迷い込んでしまう。それがヨブ記の不毛な大部分を占めるものだ。
人は何かと「神はなぜ」と言いがちであるが、忘れてはならない。願い出たのはサタンであり、ヨブをここまで徹底的に傷めつける事の首謀者も、実際に手を下したのも、サタンである、という事を。

私達はただ、主の為された「結果」を、結んだ「実」を見るべきである。
主は最終的に、ヨブにさらに深い主との交わりへと導き、さらに物質的に祝福され、さらに優れた子達を得たのだ。

ローマ8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。

主が事を為す事は「最善」以下の事は無く、まさに上の御言葉の通りであり、それ以上を私達は議論する必要は無いのだ。

2:7 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
2:8 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。

絶え間ないかゆみは、痛み以上に辛いものだ、と言われている。
サタンはここまでひどい目に、好きこのんでヨブに遭わせた。主は元々、ヨブがそうなる事をしなかった。しかしサタンは、ヨブがここまでひどい、つらい目に遭わせる事を切望していたのだ。
人が何も悪いことせず、平和に暮らしているのを、めちゃくちゃにしたい。それが、サタンの望みであり、そしてそのような性質に同意し、好きこのんで無実の人・弱い人をつまづかせるような者は、足を大きな石臼に結わえ付けられて海に沈められたほうがましだ、と主は言われた。
なぜならそのような事をする者は、サタンがやがてそうなるように、ゲヘナで永遠に焼かれ苦しみ続けるからだ。

2:9 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。

ヨブの妻の、信仰破棄である。彼女はサタンに用いられ、神を呪う事と、死ぬ事とを、夫に勧めた。
今まで人生を共にし、多くの子供を産み、事業の成功や資産の管理を手助けして来たであろう妻からのこの一言が、一番効いたのではなかろうか。
しかしヨブは、絶え間ないかゆみの中にあって絶叫したいはずなのに、そのような彼女に対して思いやりのある言葉をかけている。

2:10 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

彼は妻を「愚か者」と呼ばず「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。」と、やんわり諭している。
最も辛い中にあっても、それでも妻の弱さをカヴァーするとは、なんと素晴らしい信仰の持ち主だろう。

2:11 時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。

ここに、ヨブの3人の友人達の紹介が記されている。
テマン人エリファズは、エサウの子孫だと思われ(創世記36:10-12)、「シュアハ」はアブラハムの後妻ケトラの子の名として出て来る。(創世記25:2)
「ナアマ」は,ヘブル語で「楽しみ」という意味で,聖書では,ユダに属する町の名(ヨシ15:41),あるいはカレブの子の名「ナアム」として出て来る(砧4:15)が,関係付けることは難しい。(聖書注解)
この3人が、これから長く続くヨブとの議論をするのだが、その長い議論の中で、彼らは神という言葉は多発しても「主(エホバ)」の御名は一切、用いていない。
主エホバの御名は1章・2章には多く出てきたが、実は、3章から37章の議論の中で、主エホバの御名が出てくるのは、12:9のヨブの言葉のみなのだ。

12:7 しかし獣に問うてみよ、/それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、/それはあなたに告げる。
12:8 あるいは地の草や木に問うてみよ、/彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。
12:9 これらすべてのもののうち、いずれか/「主(エホバ)」の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。
12:10 すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。

獣も、鳥も、大地も、木々種々も、主エホバの御手が為した事を知っている、とヨブはその時言うのだが、ほんとうに、人間だけである。主エホバの御名を用いずに、人間的な知恵だけで人を罪定めしたり、哲学者ぶって知恵をこねくり回しているのは。

2:12 彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。
2:13 こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。

心身ともに酷い傷だらけヨブを訪ねた、七日七夜一緒に、声もかけず、ただただ一緒にいてくれる3人の友人達。
これをみると、なんと素晴らしい友人達か、と思う。
しかし、彼らと一緒にいた七日七夜、ヨブに何の変化があったのか分からないが、それまで、断じて口で罪を犯さず、つぶやかなかった彼が、3章以降、自分の人生を呪いはじめ、つぶやき始める。
そして3人の友人達は、主エホバの御名ぬきの、人間的な知恵や格言に基づいた議論でヨブをもっと苦しめ、失望させ、ついにはヨブをして、声を荒げて自己正当化し、3人を沈黙させるに至らせてしまう。
言ってみれば、彼らがサタンに最も用いられた、と言っても過言ではない。しかし彼らにはその自覚は無く、ヨブのためになっている、と思い込んでいるのだ。
彼らが来た動機は、ヨブを慰めるためだったが、結局その逆に、見事、ヨブをもっと苦しめたのだ。
主の御名が無く人間の格言だけの知恵は、ただ人を苦しめるだけなのだ。
それは、ヨブほどの”義人力”が飛び抜けた人をも、腐らせてしまう。
私達はヨブ記から、ますます人の弱さ愚かさを知り、ただ主により頼む事と、そして、小羊の血とあかしの言葉によって勝利する術を身につけて行きたい。

主のために働く働き人が持っている徹底した保障(2列王記4章)
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週報/メッセージ(説教)概要

 本日の箇所、第二列王記4章は、神の人エリシャを通して、主の奇跡が多く行われる。その一つ一つに共通している事は、主の働き人に対して、主は、徹底的に保証して下さるという事だ。労も多く、枕する所もなく働いている主のしもべ達に、主は、どのように報いて下さるかを本日見て行きたい。

1-7節では、預言者エリシャの元で学び、借金を負ってでも神の国に仕えていた働き人の家族に対する保障が記されている。この働き人は「主を敬う人」で、主の働きにいそしんでいたが、死んでしまった。残された妻と子供達は、借金を負った状態で、全財産は油のつぼ一つのみ。子供達は奴隷に売られようとしていた。果たして彼らは、主に捧げて、そのまま報いられず終わるのか?主はそんな事は、絶対にしない。
エリシャは彼女に言う。出来るだけ多くの人に声をかけ、器を借りて来なさい、そして戸を閉じて全ての器に油をついで行きなさい、と。彼女はとやかく言わず、預言者の言葉に望みをもって多くの器を借りてきた。
『油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。』(6-7節)
こうして主の働き人の家族は、負債を見事返したのみならず、妻も子供も生活の保証が全て与えられた。
主に仕える事は、どんな年金や保険に勝る保障があり、本人のみならず、その家族も守られるのだ。

8-37節では、エリシャを神の人として敬い、色々と便宜を計ってくれた女に対する報いが記されている。
彼女の夫は歳を取っており、子がなかったのに、子が与えられた。しかし18節以降を見ると、どうして?と思えるような事が起きる。せっかく生まれた子が、死んでしまったのだ。前回のケースのように、このような事が起きる時は、より一層、主の栄光が表れ、より一層、幸せになるための祝福が隠されているのだ。
彼女は子供の死について、信仰の良くない人には一切口を開かず、説明もせず、ただ神の人へと直接持って行った。彼女はそういう人だから、報いを受ける。子は、彼の祈りによって生き返らせてもらった。
この一件を通し、彼女はより一層主の恵みを知り、後にはボーナスも得る事が出来た。(2列王記8:1-6)
38-44節には、ききんの中でも、また致命的なミスからも、主の働き人達は守られる様が記されている。
一人の働き人が貴重な食事を作る時、無知ゆえに毒のうりを入れてしまい、あわや主の働き人達の群れを全滅させる所だった。しかし主は、エリシャを通し、その重大なミスを、毒もろとも帳消しにしてくださった。
主は、働き人がききんの時でも飢えないように、また、無知ゆえのミスをもカヴァーして下さるのだ。
さらに42-44節では、 初穂のパンと大麦のパン二十個と、新穀一袋をもって、百人の働き人を満腹させ、有り余らせる奇跡が行われた。イエス様がわずかなパンで数千人を養った奇跡を与えられたのは、群衆は、イエス様を慕って集まったからだ。「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。」(マタイ15:32) 主は、食料も持たずに無計画に彼らが集まったとしても、彼らが主を慕って来たのであるなら、彼らを空腹のまま返す事をせず、「かわいそう」と心配してくださり、しっかりと彼らを満腹にし、さらには、主の働き人の分も、満杯にした。
もう一つ、6章も見たい。6章に来ると、働き人がさらに増加し、さらに広い所に移らなくてはならなかった。
そのために新しい地に行って、新しい建物を建てようとするのだが、そこで事件が起きる。『ひとりが材木を切り倒しているとき、おのの頭が水の中に落ちたので、彼は叫んで言った。「ああ、わが主よ。これは借りたものです」。』(5節) 斧を借りてでも主の働きを懸命にしたのに、斧の頭を落としてしまった。しかしエリシャは、水に浮くはずがない斧の頭を、枝を切り落として水に投げ込んで浮かせる奇跡を起こした。
主は、借り物を使ってでも主の働に仕える働き人に、恥ずかしい思いをさせないお方である。

以上のように主は、主のために働く人に保証を与えて下さる。私達は足りてない所が多々ある。主に従って行く点においても、御言葉について行こうとする点においても。しかし、天地に満ち満ちており、有りて余らせて下さる主は、御力をもって、私達・主のしもべ達を満ち足らせて下さる。無から有を生じさせる主が、無いいのちを生き返らせて下さり、無い富を得させて下さり、無い諸々を得る力が与えられ、栄光に満ち満ちた祝福を、主に従いつつ得て行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

災いの中でも最高に神を高め、サタンの面目を失わせたヨブ(ヨブ記1:13-22)
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ヨブ記1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。

ヨブ記と言えばこの言葉、と言える程に有名な言葉だが、この言葉がどのような状況で発せられたか。
それは、ヨブが今まで与えられていたものが全て、一度に、なし崩し的にその手から奪われていった時にである。

1:13 ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、
1:14 使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、
1:15 シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。

まず奪われたのは、牛やろば、また、その耕していた畑である。
シバ人が来て、彼らはヨブのしもべ達を剣で打ち、奪っていった。

1:16 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。

神の火が天から降ってきた、と日本語聖書で書いてあるが、ここの神はヘブライ語ではエローヒムが使われている。
エローヒムは天使の事を指す事もあるし、サタンのような堕天使を現す事もある。
ちなみに6節の「神の子ら」はベニ・ハ・エローヒムで、その会合に、サタンも集ってきたのだ。
だからこの火は、サタン由来の火である。サタンの勢力も、天から火を降してしるしを行い、人々を惑わす事をするのだ。(黙示録13:13)

1:17 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。

15節ではシバ人すなわち南から来た略奪隊だが、ここではカルデヤ人すなわちメソポタミア地方からの略奪隊が、らくだを奪って行き、しもべ達を剣で殺していった。
こうして、ヨブからはあらゆる持ち物を一度に失ってしまったが、何よりも心痛いのは、息子娘達を一度に失ってしまった事だろう。

1:18 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、
1:19 荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。

ヨブの子供達が何か悪いことをしたのかどうかは特記されていない。
彼らに関しては、ただ、一年に何度か祝宴を開いて「食事をし、酒を飲んだ」事しか書かれていない。
ただ、ヨブに関しては、彼ら一人一人のために全焼のいけにえを捧げた事は書いてあある。しかし、子供達自身が主を敬い礼拝を捧げた事は記されていない。
ヨブは、彼らが「心の中で神を呪ったかもしれない」という心配はいつもあり、そして結果的には、この息子・娘達は一人残らず、サタンが手をつける際に神のスーク(囲い)が取り去られてしまっていたのだ。

人は思う。どうして、彼らは死ななくてはならなかったのか、と。
ヨブ記には、人間の「どうして」が満ちており、その議論で満ちているが、しかし神は一切、答えておらず、ただ神の力強い主権が際立ってしるされており、そしてヨブは、以前に勝る息子・娘達を得て、財産も、以前の2倍も祝福され、そして何より、ヨブは以前はおぼろげにしか神を知らなかったのだが、この事があって後には、彼は神を見、ますますはっきりと神を知るようになったという結論が書かれてある。
それが、神の答えである。
私達は「なぜ」を連発して議論に留まる者ではなく、神は良きお方であり、最善以外の事はしないお方であり、いかに理解できないような災いを被ろうとも、後には幸いへと祝福へと導いて下さるお方である、と信じて進む事こそ、私達の分なのだ。

これらの災いは、サタンがヨブを妬んだ故、神に許可をもらうと、待ってましたとばかりにヨブに徹底的に災いをもたらした。
元々神は、ヨブを誇りに思い、彼が苦しむ事は御心に無かったが、サタンのほうはヨブが災いに遭って神を呪って欲しいと願いに願っていた。
しかし、そのサタンの申し出さえも用いて、神は栄光を受け取られ、そしてヨブにも後にはさらに優れた息子・娘達を得させ、さらに優れた祝福を得させる事に用いられた。
サタンの、人を嫌がらせる手法はまことにあざやかで、時には芸術的なほどに、人が最も神経に障る所を突く事が見事であるが、しかし、この時のヨブの反応は、サタンの面目を大いに失わせ、神様はますますヨブによって栄光を受け取られるものだった。

1:20 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、
1:21 そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
1:22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。

ここでヨブが言っている「主のみ名はほむべきかな(イェヒー・シェム・ヤーウェ・メヴォラク)」には、強調されたバラク(誉め称える、祝福する)が込められている。
つまり、これは無気力な口先の賛美ことばではなく、褒・む・べ・き・か・な!と、絶叫的に強調して主の名を褒め称えているのだ。
こんな目に遭っておりながら叫ぶヨブの賛美に、主はどんなに栄光を受け取られ、鼻高々だっただろう。
そして、ヨブが神を呪う事を期待していたサタンは、どんなに面目を失っただろう。

なお、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。」の「母」は、ヘブライ語でエィーム、出発点の意味も含まれている。
つまり彼は、神は自分を祝福の出発点に立たせて下さったように、自分を再び出発点へと返して下さる、という意味が込められている。
ニコデモ(ヨハネ3章)が勘違いしたような、ヨブが再び母の胎に帰る、という事ではないのだ。

ヨブはこの後、人との議論の中で、主につぶやくような事も言うようになってしまう。
人は、弱いのであるが、しかし主は人の弱さを知っておられ、それをつつみ、さらに強くし、さらに幸いを返し、さらなる栄光を与えて下さるお方だ。

私達もヨブのように、何が起ころうとも、くちびるで罪を犯す事なく、いかなる事があっても主を誉め称え、そうして主が私達を通して鼻高々になっていただき、そしてサタンの面目をいつでも大いに失わせる者でありたい。

ヨブと神とサタンと(ヨブ記1:1-12)
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ヨブ記1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

最初にヨブの人となりが紹介されている。
彼は「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかっ」た。ここで用いられているヘブライ語ハヤーはBE動詞で、状態を現すが「なった」と訳す事もできる。
すなわち、「そのひととなりは全くなり、かつ正しくなり、神を恐れるようになり、悪に遠ざかるようになった」と。
ヨブはその生涯の過程で、御前で全くなるよう努力し、正しくなるよう努力し、悪から遠ざかるよう努力し続けた結果、神が、神の子達の会議においてヨブを自慢するようになった。
神に喜ばれるなら、当然、物質的にも祝福される。

1:2 彼に男の子七人と女の子三人があり、
1:3 その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。

彼の子達は、この物質的祝福の故に、豪勢な毎日を送っていた。
しかし、この世の富、栄華といった、世の中の物質的祝福は、徐々に人を腐らせる性質がある。

1:4 そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。
1:5 そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。

ヨブは年ごとに、その日々が一巡するたびに、彼ら一人一人のために捧げ物を捧げたが、それは、罪を犯さないように、という祈りではなく、罪を犯したかもしれないから、万一のために、という、後手に回る祈りだった。
本人自身の罪は、本人自身の主を恐れ敬う心からの悔い改めによってこそ、拭われるものである。
だから子供達には、しっかり主を畏れ敬う心と、罪を犯したなら本人自身が悔い改めるたしなみをこそ教えるべきである。

1:6 ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。

ここに神の会議が行われるが、そこにはサタンも来ている。
神はその会議に、サタンが入る事も許可されるのだ。
世の中ではあたかも、神とサタンの勢力図は互角であるかのような勘違いがあるが、神とサタンの勢力は月とスッポンにも及ばない程、圧倒的に、神が上である。
何しろ神は、サタンを呪った時、その手足をことば一つでもぎ取った程だ。

創世記3:14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
3:15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

神はへびを、すなわち、サタンを呪ったが、その時、ちりをそのエサとした。
人間の組成はちりであり、神の息なき人間は単なるちりであり、へびの食い物にさえなってしまう。
しかし、ちりであっても、神の子になるなら、神の許可なければサタンは一切、触れる事が出来ない。
むしろ、主に対する従順により、神の子となって、サタンを踏み砕く事が出来るようになるのだ。

ローマ16:19 あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。
16:20 平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。


ヨブ記1:7 主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。

サタンは万能ではない。足で(腹で?)稼ぐしか無いのだ。
そして、人を激しく妬み、神から引き離し、単なるちりにして、食い尽くそうと付け狙っている。
サタンはヨブに目を留めた。

1:8 主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

主はヨブを自慢し「わたしのしもべ」と言って「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者」と賞賛した。
彼のように自ら好んで主を恐れる人を、たとえそれが未熟であったとしても、主は喜ばれる。
そして、そのような人にはさらに召し、聖化し、栄光化するために、トレーニングされる。

1:9 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。

サタンは、主は「彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられた」と言ったが、「まがき」は、ヘブライ語でスーク(スーフ)と言う。
私達はこのスークによって守られているが、もしこの囲いが取り除かれてしまったら、私達はひとたまりもない。

私達はどのようにして、このスークを自分の周りに巡らす事ができるだろうか。それは、信仰によってである。
1ペテロ1:5「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」

ヨブ記1:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
1:12 主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。

サタンはヨブについて、神に挑発した。
神はそれに乗った形ようなで、サタンに許可を与えるが、神は決してサタンのそそのかしに支配されたのではなく、逆に、サタンさえ用いてヨブをさらに純化し、聖化し、栄化するようにしたのだ。
すなわち、彼がより神を知るようになり、永遠に変わらない栄誉に与かるようにと。

この世の富、栄華といった、世の中の物質的祝福は、徐々に人を腐らせる性質がある。
列王記・歴代誌において、神を敬う良い王様が時々起こり、その代は例外なく物質的にも祝福されたが、しかし同時に、例外なく物質的祝福が元となって高慢になって罪を犯してしまった。
神はもしかすると、ヨブが、物質的祝福によって腐り切ってしまう前に、試練を与えられたのかもしれない。
そして、この信仰の試練によって人を練り、きよめ、決して朽ちる事の無い永遠の栄光に与らせるために、その事をされるのである。

1ペテロ1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

ヨブの、試練の前と後とは、物質においても信仰においても、格段に違った。
彼はこの試練を通して、さらに上のステップヘ進む事が出来た。

この世においては諸々の患難がある。しかし、主キリストは、世に勝ったのである。
だから私達は勇敢にこの世を渡り合って行く事が出来るのだ。

御国の宴会に入れる人、入れない人(ルカ14:1-24)
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主の働き人に貧しい思いをさせず豊かに養って下さる主(2列王記4章)
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主は、主の働き人を決して貧しい思いのままにされないお方である。
第二列王記4章は、まことに主の働き人に対する保障がどのようなものであるのかという事例に満ちている。

4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。

彼女の夫は、負債を負ってでも主の預言者につかえていたが、そんな彼が死んでしまった。
残された彼女と子供達は、奴隷に売られる他は無いような状況であるが、しかし彼女は預言者の所にその問題を持って行った。
主は、主を恐れる人を、その家族をも養って下さる。
エリシャの言葉どおりにしたら、唯一の財産であった油が、多く満たされた。

4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。

神の必要の満たしは、ちょびちょびではない。たっぷり、である。
ただし、それには私達の側の器次第である。
彼女は望みをもって、たくさん、器を借りたからこそ、たくさん、得た。

8節から17節には、主の預言者に良くしてあげた不妊の女性に、子供が与えられる奇跡が記されているが、しかしその子が死んでしまった。
せっかく子供が生まれ、まだ小さく、かわいいさかりなのに死んでしまう。母親としては悲しみの極みである。なんで、この子は生まれ、そして死ななくてはならなかったのか、と。

 4:21 母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。
 4:22 そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。
 4:23 夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。 4:24 そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。

子どもの父親すなわち彼女の夫は、神の人の所に会いに行くのは、ただ安息日や礼拝の日だけだ、と思っていたようだ。しかも、子供に何か良からぬ事があったのか、という察知する心遣いもないようである。

たとえ死んだという事を知らなかったにしても、子どもはあんなに頭が痛かったのだから、神の人のところに癒やしてもらいに行くのだろうか、という発想も沸かない不信仰な彼とは一切会話はせず、議論する事もなく、急いで神の人エリシャの所に向かう。
彼女は一切の事を秘め、ただ直接、エリシャの所に行って、この事を解決してもらおうと思っていた。
4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
 4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
 4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。

エリシャ、ずいぶん大胆な行動に出たものだ。
律法では、死体に触れる事は、汚れを受ける事であり、1週間がかりできよめの儀式を行わなければ、きよめられないという、やっかいな事だった。
それでもエリシャは、ここまでした。エリシャに相当の覚悟がなければできない事だ。
まさに「祈りと断食」である。

4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

死んでいた子どもが、生き返った。これは、当時の周囲の人々にインパクトを与える事だろう。

4:36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。
 4:37 彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。
彼女はこのように良くしていただいた。

彼女は、旅人をもてなし預言者に良くする信仰があったから、そして、問題が起きたら誰よりも何よりも、主の預言者に持っていく信仰があったから、このような幸いを受け、また彼女はその後にもこの事ゆえに幸いを得る。

4:38 エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。
 4:39 彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。
 4:40 やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、
 4:41 エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。

ききんの時である。食料がとても貴重な時であるが、この時、一人の預言者が、その貴重な食料の入ったなべに無知のゆえに毒を入れてしまい、人々の口に持って行かせてしまった。
主に在る兄弟姉妹の口に入るものを作る時にはよくよく注意すべきではあるが、彼は無知であった。
これがもとでその集会の全員が死んでしまう危機であったが、主を信じる人、神の国の働き人には、毒を受けても害を受けないという保証が与えられている。(マルコ16:17)

彼は、無知であったかもしれない。主の働き人一同をあわや全滅させて下さるという、大きなミスを犯したかもしれないが、しかし主はききんの時代でも、働き人のミスを覆ってあまりある事をして下さるお方である。

4:42 その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、
 4:43 その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。
 4:44 そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。

これもイエス様の奇跡を思い起こさせる。
イエス様はわずか5つのパンを2引きの魚で、5000人をも養った。そのイエス様の奇跡が与えられるのは、イエス様に望みを追って集まった群衆である。
イエス様は、憐れまれる。無計画にではあってもイエス様を慕って集う人々に対し。
そして、彼らの”無計画”ゆえに手持ちの食料も持ってこなかったという報いを、そのまま「自己責任だ」などと言う事なく、むしろ、イエス様がみずから彼らを心配してくださり、しっかりと保証を与えられた。

そして、主の保証の仕方は同じである。
主は、主を慕い求める者を満腹させ、道足らせるばかりでなく、主の働き人の分もちゃんとたっぷり整えて下さるのだ。

楽しみながら「忍耐」し、主からの栄光を受けるために(ヤコブ5:7-20)
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5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。

このヤコブ書5章には旧約の偉人、ヨブとエリヤが出てくる。
いずれも、忍耐を通して偉大な業績を残した人達だ。
耐え忍ぶ事はとても有用な事だが、それは単なる我慢大会ではない。
聖書的な「忍耐」は、未来を現代へと引っ張る力がある。

信仰者が登っていくべき、信仰の成長の「階段」が、ローマ5章に記されている。

ローマ5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

イエス様を信じて義とされた私達には、まず、神との間の平和を得る事が出来る。
そして、その恵みへと信仰によって導き入れられ、さらに、神の栄光にあずかる希望を持つ事が出来るのだ。

ローマ5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。

義とされた者は神との平和を得、平和を得た者は患難さえ喜ぶ。
「患難(スリフィス)」は、オリーブの実が圧搾機の中で絞られ、有用な油が絞り出されるような意味があり、患難によって、私達の中にある尊い信仰が絞り出され、それが主に喜ばれ有用に用いられるために、まず圧搾されるのである。それを思うなら、患難を喜びに変換できる。
「忍耐」はギリシア語でフィポモネン、下に平伏す、という意味がある。それは、農夫が種を蒔いて、下に平伏しつつも、あたかも、喜びの刈り取りを目の前現実で刈り取っているかのような喜びをもって、喜ぶものだ。
私達はそのようにして忍耐しているだろうか。信仰者の忍耐とは、単なる我慢大会ではなく、未来の喜びを目の前に引っ張ってきて喜ぶ力があるのだ。
そしてそれが錬達(ドキメーン)を生み出す。それは研磨する、あるいは溶鉱炉で不純物を除いて純化して行く意味がある。
私達はどんどん純化されて行き、そしてやがて、決して奪われる事の無い希望を生み出すのである。
ローマ5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

ヤコブ5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

主は近い。だからむしろ私達も、聖書に記されている人々にならい、今している忍耐には大きな希望と喜びが必ず待っている事を当然のごとくに、信仰をもって自分のものとしていく事こそ、むしろラクで楽しい道なのだ。

5:12 さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。

将来をのぞむ事は有用だが、同時に、取らぬ狸の皮算用に陥らないよう、気をつけなさい、という事だ。
私達は将来起きる事が分からない。だから御旨から外れた先走った皮算用をして、誓いを破ったというそしりを受けないよう、ただ、はいははい、いいえはいいえだけ言えば良いのだ。

5:13 あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。
5:14 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
5:15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
5:16 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
5:17 エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。
5:18 それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。

地上を歩む日々は荒野を進む日々かのようで、忍耐が必要だが、いくら忍耐を喜びなさいと言われても、そうできない弱さが私達にはある。
だからこそ、聖徒の交わりの中で、特に信仰の先輩たちの助けを得つつ、また互いに祈り合いつつ、この荒野を乗り切って行く必要があるのだ。
そして私達も成長したなら、信仰の先輩となって、罪の道、滅びの道を歩んでいる人達を救うべきである。

5:19 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、
5:20 かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。

ヨブ記概要(ヨブ記1:1)
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今回より、ヨブ記の講解説教に入る。
ヨブ記はユダヤ的な分類では「諸書(ケトゥビーム)」、異邦人的な分類では「詩歌・文学」に当たる。
だから、前回までは「歴史書」に分類される書で、言ってみれば、前回と今回では、社会の歴史から国語の文学へと教科替えしたようなものである。

ヨブ記はその名の通り、ヨブという名の人が主人公の書物であるが、彼の人となりについては、この書の最初に記されている通りである。

ヨブ記1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

彼はそれ故、神に愛され、守られ、当代一の祝福を受けたが、彼の心には一抹の不安があった。この祝福がいつか取り上げられはしまいか、と。
しかしその不安は、現実のものとなってしまう。
サタンはヨブを訴えた。彼から主の囲いを取り除いたなら彼は本性を現す、と。
神はそれに許可を与え、ヨブは一日にして全財産を失ってしまうのみならず、さらにひどい皮膚病に冒されてしまう。
それでも彼は口で罪を犯す事をしなかった。(1-2章)

しかし、ヨブの3人の友人が来訪した時から、このヨブ記の雰囲気が変わる。
 2:11 そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。

彼らは慰めに来たはずなのに、ヨブが徹底的な災いに遭っている様を見て、彼が何か罪を犯したからに違いないと思い、それを諭す言葉をかけた事を発端に、ヨブとこの3人の友人の論争となる(3-26章)。
テマン人エリファズが物申し、ヨブが犯した罪を悔い改めるべき事を説くのだが、しかしヨブには身に覚えがない。ただ一方的に災いが起こった事を申し述べるだけである。
それに対し、シュアハ人ビルダデが似たような事を物申し、ヨブがそれに答え、さらにナアマ人ツォファルが物申し、それにヨブが答えていく、という一巡を、合計3セット繰り返す。
1セット目はまだ静かな対話であるのだが、2セット、3セットと重ねるごとに表現が厳しくなり、険悪化し、論争が激化して行く。
そしてヨブ自身、身の潔白をあくまで主張し(27章)、現状を嘆き、神に対しても、自分の身は潔白だと主張するに至る。(28-31章)

最初は口では罪を侵さなかった義人ヨブでさえ、友人達から、自覚なき罪の指摘ばかりをされ続けていると、ついには怒りの内に、神に対してさえ挑戦状を叩きつけるに至ってしまう。
まことに人間由来の知識論争は、いかに高等・高尚でも、義人さえもこのように籠絡させてしまう。

3人の友人は黙ってしまうのだが、そこに、3人の論争をそれまで黙って聞いていた若者・エリフが口を開く。
 32:6 ブズびとバラケルの子エリフは答えて言った、/「わたしは年若く、あなたがたは年老いている。それゆえ、わたしははばかって、/わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
 32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。
 32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
 32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
 32:10 ゆえにわたしは言う、『わたしに聞け、/わたしもまたわが意見を述べよう』。

エリフは、ヨブも友人達も議論の中身に問題があり、神こそただ正しいお方であり、自分を正しいとする事がそもそも違う事を主張する。
エリフの論述が32章から37章まで続くが、ついに、主ご自身が、あらしの中からヨブに語りかける。

 38:2 「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 38:3 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。

ヨブ達はそれまで、多くの無知の言葉をもって、真理を暗くしてきた。
主は、ヨブの質問には何一つ答えない。真理を暗くする議論論争に答える必要は、一切ないのだ。
主は、ただ主こそが全能であり、全てを創られ、全てを支配・管理しておられる事を、圧倒的な顕現をもって彼に示す。(38-41章)
それでヨブはただ悔い改め、ちりと灰の中に伏した。

主は確かにヨブから取り上げられた。しかし、ヨブが悔い改め、友人達のために祈った時、主はヨブを元通りにし、彼の持ち物を以前の2倍にして下さった。(42章)
さらに友人たちも彼を慰め、主は彼を幸いにして下さった。
ヨブ42:12 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。
 42:16 この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。
 42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

ヨブ記については、「正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。」(wikipedia)
しかしその見解は、神様が彼に苦難を下さった、という点で止まってしまっており、ヨブの後半人生がどんなに祝福されたかが薄れてしまっている。

聖書がヨブ記について結論づけている箇所は、ヤコブ書である。

ヤコブ5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
 5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。
 5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
 5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
 5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

ヤコブ書に書いてある通り、ヨブ記の主題は、忍耐して主を待ち望む者の幸いであり、主の慈愛とあわれみの素晴らしさである。
「主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるか。」
そこに着眼しつつヨブ記を読む時、神様は気まぐれにに災いを起こされるお方ではなく、あわれみをもって最善へと導いて下さるお方である事が、そして、主がいかに全能なる力と、深淵なるご計画で、私達を愛・あわれみのうちに導いて下さるかが見えてくる。

人間が主人となる事の愚かさと、それに引き換え、慈愛とあわれみに富んだ主を主とする事の素晴らしさを、ヨブ記から学んで行きたい。

ハデスに勝利したサレプタの小さなコイノニア(1列王記17:17-24)
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第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

 前回、神の国を第一とする(リションする)人には干ばつの時でも主が直接養って下さり、生活も保障される事を、サレプタのやもめから学んだ。彼女は預言者からの主の言葉通り、かめに残った最後の粉・最後の油を捧げた事で、干ばつの間、粉も油も尽きる事なく、本人自身も、息子も、そして預言者も、養われた。
確かに主を第一とする人は主から養われるが、かといって災いが全く起こらないかというと、そうではない。
『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えた』(1列王記17:17) エリヤを養っていたやもめの子が、死んだ。なぜ?と思う。いのちを生かすための奇跡が続いていたのに。私達にもこのような、分からない事が起きる。祝福されるはずの信仰生活を落ち度なく続けていた、と思っていたのに。どうしてこういう事が起きるのだろう。本日、その事を学びたい。

イエス様の時代にも、似た事が起きた。イエス様が愛しておられたラザロが病気であるとイエス様が聞いた時、主はすぐに行かず、敢えてその所に2日留まり、彼が死んでから、そこへ行かれた。(ヨハネ11章)
この行動は、弟子達やラザロの姉妹に、そして私達にも、不可解に思える。しかしイエス様は言われる。
「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(ヨハネ11:4) つまり、愛する人が死ぬ事を敢えて許し、そして蘇らせるという、この一連の過程を通して、人々は神の栄光を見、神の子が栄光を受け、主の言葉こそ真実である、と信じた。
これらの事が起きるのは、神が栄光を受け、そして、人々が信じるためである(ヨハネ11:15,26-27,45)。
彼女は聞く。『あなたは私の罪を思い出させるため…においでになったのですか。』(18節) 彼女が真っ先に思い当たったのは自分の罪だった。人はなぜ死ぬのか?書いてある。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23) 彼女は子の死を自分の罪の問題ととらえ、神の人に来た。このような人は救いから遠くない。
干ばつの中、尽きない粉と油に満足し、無意識に飲み食いしている恵みのさ中、生かされるのは結局、「肉」だけであり、そのまま満足して主に求めないようでは、霊は死んで行くという事を、彼女達は分かっていなかった。結局、最も大切なのは、神様への日ごとの感謝と信頼だ、という事を忘れてしまうなら、最も大切な子が死ぬ事により、死を孕んだ罪の問題へ心を向け、永遠の救いへ至る信仰に至らせて下さるのだ。
私達も、死を孕んだ罪の問題を解決して下さるイエス様に、日毎、助けて下さいと祈り続ける必要がある。

サレプタでは、霊の養いと肉の養いを互いに共有し助け合う、ちいさな「交わり(コイノニア)」があった。
エリヤは彼女に「子を私によこしなさい」と言って彼女のふところから子供を取った(19節)。彼女はずっと子をふところに握りしめていたが、問題をずっと握りしめたまま状況を悪くし、最悪になって、ようやく信仰者に渡す、という事はせず、すぐに信仰者に渡す事もまた、交わりの中で大事である。信仰による祈りは、病む人を回復させ、義人の祈りは働くと大きな力がある。また、罪の問題についても互いに祈り合いなさい、と書いてある(ヤコブ5:13-18)。私達も、いかに小さな交わりでも、罪について、死についての問題を、交わりの中で互いに告白し合い、祈り続けて行くなら、そこはハデスの門さえ勝つ事は出来ないのだ。

エリヤは三度祈って、ようやく祈りが聞かれ、子供の命が戻った。雨が降るように祈った時も、7度祈って、ようやく小さな雲が現れた。あのエリヤが、なぜ一度の祈りで答えられないのか。もし私達がたった一度の宣言や、たった一度の祈りで何でも聞かれるなら、主にしがみついて行こうとする心がどんどん薄くなり、傲慢になってしまうだろう。だから、主が与えて下さる時まで求め続け、探し続け、叩き続ける必要がある。
このように、「なぜ」と思える問題が起きる事も、あるいは、必要が備えられるにしても「日々」「僅か」である事も、それで主への感謝をすぐ忘れやすい私達が、生涯、日ごと、主に祈り頼み続けて生きて行けるのだ。
彼女は息子が生き返らされて、知った事が二つある。エリヤが神の人である事と、彼の口にある主の言葉は真実である事だ(24節)。こうしてエリヤの言葉はますます権威を帯び、彼が仕える神は、栄光を受けた。
私達もエリヤのように、神の言葉を伝える時、神の子としての栄光が与えられ、私達が神の言葉を語る時、人々は心して耳を傾けるのだ。こうして、預言者と彼を支える信仰者のやもめという、サレプタの小さなコイノニアで、彼らは干ばつの時代を乗り切って行った。私達も今、ここにコイノニアがある。この交わりを尊く保ち、互いに祈り合い、励まし合い、罪と死の問題を解決して行く皆さんでありますように!

聖なる神殿を焼き、城壁や尊い器を破壊し、神の民を虐殺した、神の民自身の不従順の罪(2歴代誌36:11-10)
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歴代誌の最後は、神の民にとっては非常に心重くなるような、神殿破壊と神の民の虐殺・連行の記事と、そして、さらにその向こうの小さな希望が見いだせる記事で終わる。
しかし神殿破壊と虐殺は、実に、神の民の側の故であり、その向こうの希望は、実に神の憐れみ故である。

2歴代誌36:11 ゼデキヤは王となった時二十一歳で、十一年の間エルサレムで世を治めた。
36:12 彼はその神、主の前に悪を行い、主の言葉を伝える預言者エレミヤの前に、身をひくくしなかった。
36:13 彼はまた、彼に神をさして誓わせたネブカデネザル王にもそむいた。彼は強情で、その心をかたくなにして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。

ゼデキヤの統治の時代に、イスラエルに徹底破壊がもたらされたが、もし私達も、彼のように、強情で、心をかたくなにして、主に立ち返らない性質であるなら、せっかくの主の憐れみも無駄に使い果たし、徹底破壊がもたらされてしまう。
当時の時代、王だけでなく、周りの人々もみんなそうだった。

36:14 祭司のかしらたちおよび民らもまた、すべて異邦人のもろもろの憎むべき行為にならって、はなはだしく罪を犯し、主がエルサレムに聖別しておかれた主の宮を汚した。

主は、罪を犯したら即罰するお方ではない。必ず憐れみの期間を設け、人々が立ち返るように警告と勧めを与えられる。
神は早くから預言者を遣わし、度々警告を与えられたが、そんな彼らに対して人々はどうしたか。

36:15 その先祖の神、主はその民と、すみかをあわれむがゆえに、しきりに、その使者を彼らにつかわされたが、
36:16 彼らが神の使者たちをあざけり、その言葉を軽んじ、その預言者たちをののしったので、主の怒りがその民に向かって起り、ついに救うことができないようになった。

あまりに罪を犯し続けると、ついには、救うことができないまでになってしまうのだ。
神の憐れみは底知れないが、しかし人それぞれに与えられる憐れみには、それぞれに応じた限度があり、その人が与えられていた憐れみの限度を切らしてしまうと、ついには救いようが無くなってしまうのだ。

36:17 そこで主はカルデヤびとの王を彼らに攻めこさせられたので、彼はその聖所の家でつるぎをもって若者たちを殺し、若者をも、処女をも、老人をも、しらがの者をもあわれまなかった。主は彼らをことごとく彼の手に渡された。
36:18 彼は神の宮のもろもろの大小の器物、主の宮の貨財、王とそのつかさたちの貨財など、すべてこれをバビロンに携えて行き、
36:19 神の宮を焼き、エルサレムの城壁をくずし、そのうちの宮殿をことごとく火で焼き、そのうちの尊い器物をことごとくこわした。

神の民と呼ばれている者達を老若男女を問わず虐殺される。
聖なる神殿が火で焼かれる。
城壁が破壊され、尊い器がことごとく破壊される。
あってはならない事だが、これを見て「バビロン人はひどい」と思ってはならない。
彼らは単に、主に破壊の器として用いられただけである。

聖なる神殿を焼き、城壁や尊い器を破壊し、神の民を虐殺したのは、実に、神の民自身の罪なのだ。
バビロン人がやった、と思ってはならない。実に神の民自身の罪が、聖なる神殿を焼き、城壁や尊い器を破壊し、神の民を虐殺するのだ。

私達・現代の「神の民」もまた、御言葉の警告を無視し、主に対する不誠実を続けるなら、この事が起こるのだ。
歴代誌を、単に、イスラエルという一民族の昔行われた歴史だと思ってはならない。
現代の私達にも警告として語られているのだ。
1コリント10:6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
1コリント10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
2歴代誌36:20 彼はまたつるぎをのがれた者どもを、バビロンに捕えて行って、彼とその子らの家来となし、ペルシャの国の興るまで、そうして置いた。
36:21 これはエレミヤの口によって伝えられた主の言葉の成就するためであった。こうして国はついにその安息をうけた。すなわちこれはその荒れている間、安息して、ついに七十年が満ちた。

神の民が受け継いだ「約束の土地」は、もしそこに住む神の民が、神の民らしからぬ事を続け、罪の飲み食いを重ねて行くなら、その土地は彼らを吐き出す。
彼らが死ぬなり強制連行されて行くなりして、彼らがいなくなっている間、その地は、安息を得るのだ。

レビ記26:34 その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。
26:35  地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。
26:43  その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。

私達は、聖なる所から追い出される側になってはならない。
神の宮から追い出されて、神の宮に残った人達から「あの人がいなくなって安息が来たね」などと言われてはならない。
もし聖なる所で罪に罪を重ねるなら、そうなってしまうのだ。

エレミヤ5:24 彼らは『われわれに雨を与え、秋の雨と春の雨を時にしたがって降らせ、われわれのために刈入れの時を定められた/われわれの神、主を恐れよう』と/その心のうちに言わないのだ。
5:25 あなたがたのとがは、これらの事をしりぞけ、あなたがたの罪は、良い物があなたがたに来るのをさまたげた。

2歴代誌36:22 ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動されたので、王はあまねく国中にふれ示し、またそれを書き示して言った、
36:23 「ペルシャの王クロスはこう言う、『天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに賜わって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆、その神、主の助けを得て上って行きなさい』」。

歴代誌の最後は、捕囚から70年が経った後の、クロス王による帰還命令によって終わる。
主の憐れみは、尽きない。
しかしもし人が、その限り有る人生の中で、あくまで主に従わない事を続けるなら、その人生の終わりは、この歴代誌の終わりのように悲惨なものとなってしまう。
そしてその向こうにも主の憐れみがあり、主に従う人達がいつまでも他人の罪のとばっちりを受け続けないようにして下さる。

歴代誌、および聖書全体は、まさに私達に関わる書物である。
これをし続けるなら必ずこれが起きる、という、真理のケーススタディが、幾通りも記されている。
私達の過去起きた事が書かれてあり、そしてこれから起きる事も書かれてある。
この、神の御言葉から戒めと養いを得て、祝福の王道から外れる事なく、この、地上の歩みを全うできる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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