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主エホバの栄光を全地に満たすために(エゼキエル40:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要

 この日本という国は、世界的には富んだ国、力ある国として認知されているかもしれないが、福音という面では、全く貧しい弱小国である。1549年、フランシスコ・ザビエルによって初めてこの地に福音が入り、当時は多くの人々が福音を受け入れたが、時の指導者達は、主キリストにある私達の兄弟姉妹を迫害し、多くの血を流し、その後も、多くの罪を国の内外に対して犯し続けて来た。
そして未だに、この国が大規模に福音を受け入れたという歴史は無い。ちょうど、エゼキエル書37章のように、はるか昔に殺された人達の枯れ果てた骨々が、谷を埋め尽くしていたような状況である。果たして、はるか昔に殺されて干からびてしまった骨々は、生き返る事が出来るだろうか?主こそ、ご存知である!
主はエゼキエルに、骨に対して主の言葉を語れ、と言った。枯れた骨よ、主の言葉を聞け、と。(37:4)
彼が干からびた骨に対し、主から命じられたとおりの御言葉を宣言すると、大きな変化が起きたように、私達も、御言葉をそのまま語りだすなら、大きな変化が起きる。たとえ相手が、干からびた骨のような人でも。
散り散りになってしまっていた骨と骨が組み合わされ、筋が通り、肉が生じ、主の息吹にいぶかれて、大軍団となったように(37:10)、主はそれと同じ事をなさるお方であり、私達はそるなるよう宣言する事が出来る。
神は、宣教のことばの愚かさを通して信じる者を救おうと定められた。だから、それをするのは、私達である。
どのようにしてそれを行うべきか。続くエゼキエル書に、そのヒントがある。

エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
その時代はすなわち、ソロモンが建てたあの豪華絢爛な神殿が、バビロンによって破壊され尽くした後である。神殿が破壊されてしまったのは、イスラエルが代々犯して来た罪の故であり、そしてその罪のはびこりの原因は、御言葉の伝授が、すなわち、子供たちへのテフィリン教育が為されていなかったためだった。
しかし、バビロンによって神殿が破壊されてしまって14年の後、エゼキエルは主にとらえられ、非常に高い山の上に、人の手によらない神殿と都が建っている幻を見せられた。
『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い古した測りに、一手幅、加えられたものだ。
つまり、まことの神殿であるキリストを測る際は、人が使い古して来た基準や常識という測りで測ってはならない。まことの神殿をは、十字架のキリストの手が加えられた神の御言葉によってこそ、測るべきなのだ。

エゼキエルは、この手幅が加えられたはかりを用いて、神殿を測って行くと、さらに次々と示しや預言が与えられて行く。そしてその後、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出ていた。
その水によってできた川は、測れば測るほど大きくなり、木が生え、いのちが増え、魚も群がって行く。
この水が流れこむなら、死海でさえいのちが群がる所となり、そこの魚をとるために、漁師達が住んで、網を引く場所となる、と書いてある(47章)。
そしてその水はさらに流れて行って、やがては、水が海を覆うように全地に満ちる事になるだろう。
「海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。」(ハバクク2:14)

エホバの栄光を知る「知識」によって、全地は満たされる。地の果てに至るまで。それをするのは、人の教えに教えられた者ではない。十字架のキリストの手が加えられた御言葉によって養われた人こそ、神殿を正しく測ることができる。彼らこそ、正しい「はかり」を得た人であり、彼らによって、それが可能なのだ。
イエス様は言った。全世界に出ていきなさい、と。イエス様は既に、天においても地においても、いっさいの権威が既に与えられた。もし流し出さないで留まっているなら、水は良くならず、塩のまま残ってしまう、とも書いてある(エゼキエル47:11)。だから、イエス様の権威を身に帯びて、全世界に出ていき福音を伝えるべきだ。多くのいのちを、死から救い出すために。
どんどん、まことの神殿であるキリストを計って、どんどん流し出し、海が水で覆うように、主エホバの栄光を地の隅々にまで至らせる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
 

いのちが流れ出て行くために(エゼキエル37-47章)
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※メッセージテキストは後程アップします。
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。

日本には1500年代、福音が入り、多くの人々が福音に触れたが、やがて彼らは迫害され、多くの殉教者の血が流された。
果たして、切り殺され、干からびてしまった骨々は生き返る事が出来るだろうか?
主こそ、ご存知である。

37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。

干からびてしまった骨に対しても、御言葉を語ると、変化が起きる。

37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。

主は、死んだような状態から生き返らせて下さる事をされる。かつては骨のような状態から人並みの状態にまで戻されたキリスト者は大勢いるし、そのように求めている人は多い。
しかし、「神の息」が無い状態では、マネキンのように死んだも同然の、「行い」の無い信仰状態である。
だから神の息、神のルアッハ、神の霊が必要である。

37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆(Force, Army)となった。

主の霊が入るなら、自分の足で立てなかった者も立ち、暗闇の王国、サタンの座をも、大胆に攻撃し勝ち取る大いなる軍隊になる事が可能なのだ。

主の息、それは、全地を覆っている。
創世記1:2の、あの暗闇と混沌の中で、主の霊はめんどりがひなを覆うように覆っていた。

ヨブ38:7 かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。
38:8 海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、/だれが戸をもって、これを閉じこめたか。
38:9 あの時、わたしは雲をもって衣とし、/黒雲をもってむつきとし、

天地が創造された時、海の水が胎内から破水して出た時、それを主は乱雑に広がらないよう閉じ込め、主の霊によって覆い、むつき(ハトラー)によって守り囲っていた。
混沌の中においても、主の霊が覆い、守っておられるのだ。この日本を、世界を、切り殺された骨々を。

混沌と死の大地にいのちの潤いの水が流れだし、いのちの水が全地を覆うようになるために、どうすれば良いか。
続くエゼキエル書の箇所に、その答えがある。

40:1 われわれが捕え移されてから二十五年、都が打ち破られて後十四年、その年の初めの月の十日、その日に主の手がわたしに臨み、わたしをかの所に携えて行った。
40:2 すなわち神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して、一つの町のような建物があった。

エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
この時代、ソロモンが建てた豪華絢爛な神殿は、イスラエルが代々犯して来た罪の故に、異邦人に破壊され尽くした後だった。神殿が打ち壊されてから十四年後、彼は、主が見せられた幻の内に、非常に高い山の上に建てられた、人のものならぬ神殿へと上げられた。

『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い慣らされたはかりに、一手幅、加えられたものだ。
人手に依らない神の宮、それは、人の常識、人の習慣的な計りでは、計る事は禁じられている。それに、一手幅加えた測りを用いるように御使いに言われた。

ヘブライ語で、ユッドには、手の意味がある。
ユッド ヘー、バブ、ヘー、これがエホバの御名であるが、そこからユッド(手)を除くとハバー、息を吹き込む、成る、という意味である。
手、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、
הוה:"havah {haw-vaw'}"; a primitive root (compare 'avah, hayah) supposed to mean properly, to breathe; to be (in the sense of existence) -- be, X have.息、に、手、すなわち、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、ユッド ヘー、バブ、ヘー、エホバの御名が完成し、主のわざが完成するのだ。

エゼキエル40章以降、この、人のはかりに、手幅が加えられた、人のものならぬ測りざおを用いて、主が示された新しい神殿、すなわち罪ある人間が建てたものではない神殿を、主の測りで測って行く内に、次々と、色々な示しや預言が与えられて行く。
そして、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出していた。

47:1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
47:2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
47:3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。

人のものならぬ主の建てた神殿を、主の測りに従って測って行くなら、いのちを潤す水が流れ出して来る。
まことの神殿は、イエス様であり(ヨハネ2:21)、この神殿を、主の示す物差し、すなわち御言葉によって正しく測り、寸法もきっちり正しく調べて行くなら、行く程、いのちの水、潤す水が内から流れ出して行くのだ。

47:4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
47:6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。

流れ出したいのちの流れを、主の測りで測る毎に、その潤す水、いのちの水は、どんどんかさが増していく。最初は足首ほどから、次にひざ程、次に腰ほどに、そして、渡る事にできない川にまで至る。
『彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。』(6節) 私達も、流したら流しっぱなしではなく、結果、どんな実を結んだか、見に戻るべきだ。

47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。

水は、神殿の聖所から流れ出ている。まことの神殿はイエスキリストであり、私達もイエス様を信じる時、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)
その”水”が入るなら、その水は良くなるため、生き物が群がるようになり、非常に多くの魚がいるようになる。
この水が流れこむなら、死海さえいのちが多くなり、海岸には漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
死海のようだったサマリヤの女も、イエス様を受けた時、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。

『ただし、その「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」とは清められないで、塩地のままで残る。』(11節)
水が流れず留まっている所、人為的に水を貯めこむような所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。どんなに良質の御言葉が流れて来ても、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで、流し出さないなら、塩のまま残り、死海のように、いのちがいなくなってしまう。
御言葉のいのちが流れこんで来たなら、それが口まで溢れているなら、留めて置いてはならない。御言葉も、ただ暗記するだけで、宛先が明確でないなら、宛先不明の手紙のように、どこぞに落ちてしまうのだ。


47:12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。

毎月実が成る・・・一体どれだけ多産で、いのちに溢れているのだろうか。
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、御霊の実は何も頑張らずとも、自然と、絶える事なく、実らせ続けるものである。そしてそれは自分ばかりでなく、周囲も潤し、癒やすものとなる。
人の建てた神殿を、人の物差しで測っても、ただ疲れるしか無いが、人のものならぬ、主の建てた神殿・イエス様を、主の物差しである御言葉に従って測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん流れ出して来る。
この、いのちの源・イエス様を御言葉で正しく測り、泉を湧き出させ、湧き出る水を測って、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く時、主のいのちの水を流し出す者となり、ついには全地を主のくださる潤いの水が、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)

ハバクク2:14 海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。

この言葉が成っている事を、信じるだろうか?
アーメン、今、いかに混沌に見えるような現状でも、主の霊は覆っており、そして私達が主の与えてくださったはかりで計る時、いのちの水が流れていき、いのちが実体化して行くのだ。
なぜなら、福音の伝達は、人間の、伝道の愚かさによって成就して行くようにと、主が定められたからだ。

ジェホバ・メカディシケム(詩篇23:5)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

主の御言葉を伝える人が、畏れ敬う心を持って準備し、そして講壇に立つ時、主からの特別な油注ぎが与えられるのを感じるはずである。
それは、御言葉が伝えられ、主の栄光がその集いにいる一人一人に注がれるためであり、主の栄光が大いなるものとされるためだ。
講壇に立てば誰でもメッセージが与えられるというものではない。日頃、主の御前で整えられた心が必要である。
信仰は登る。恵みは降る。その二つが合う時、奇跡が起きる。もし、私達が上らせる信仰が少ないなら、恵みも少なく、上らせる信仰が多いなら、降る恵みも、多いものだ。

今回の箇所では、主の御前で、そして敵の面前で、主からの恵みをいただく人の幸いが書いてある。

詩篇23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

詩篇23篇には主エホバのご性質が8つ隠されているが、そのうちの8つ目、「ジェホバ・メカディシケム」が、この5節に込められている。
ジェホバ・メカディシケム。その意味は、「聖別する主」であり、「わたしのこうべに油をそそがれる」がそれに当たる。

主は、油を注いで下さる。それも、敵の面前で。
主を敬わない敵と、主を敬う私達の間をご覧になる時、主は、主を敬う私達のほうに御顔を向け、敵の面前で宴を設けてくださり、そして、油を注いで下さる。

この幸いを呼びこむために必要な事は、主を羊飼いとすること、主を敬う事だ。
ちょうど、主がアベルの捧げものに目を留めて、アベルとその捧げものに敬意を表したように。
主への敬いも主への正しい態度もなく、単に捧げものを持ってきただけのカインの捧げものには、主は目もくれず、一切の敬意も表さなかった事を、覚えておかなくてはならない。

このジェホバ・メカディシケムが出てくる聖書の箇所は、出エジプト記である。

出エジプト記31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが「あなたがたを聖別する主(ジェホバ・メカディシケム)」であることを、知らせるためのものである。
ジェホバ・メカディシケム。それは、安息日を守る人、すなわち、主を礼拝すべき日にしっかり礼拝し、世の事どもをしない、そのような人を、主は聖別して下さる。
そうであるからには、私達自身が、主に喜ばれる礼拝者である事の努力をし続けるべきである。
カインの性質を捨て、アベルのように最良のものを、最良の形で捧げようと、主を愛する心を持っている人にこそ、主は、目を留めて下さるのだ。
主は、全地を見渡し、その心が全く主とひとつになっている人を探しておられるからである。

続く節には、次のように記されている。
 31:14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

なんと、安息日を聖としない人は、殺されなくてはならない、とまで記されている。主が「聖とせよ」「安息せよ」と命じられたのに、聖とせず、安息しないで、世の仕事、世の飲み食いを好んで続ける限り、主の聖、主の安息には、入れてもらえないのだ。
私達には、永遠の安息の地、天国が備えられている。だから、天を覚えて日々生きるべきだ。そうでなく、世のことばかりに捕われて、礼拝するべき日を軽んじ、主を覚えないなら、どうして天国に相応しい者になれるだろう。

ジェホバ・メカディシケム、この言葉が与えられる前の所では、主は特別な任命を、名指しして、定めている。
31:1 主はモーセに言われた、
31:2 「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、
31:3 これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、
31:4 工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、
31:5 また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。
31:6 見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。
31:7 すなわち会見の幕屋、あかしの箱、その上にある贖罪所、幕屋のもろもろの器、
31:8 机とその器、純金の燭台と、そのもろもろの器、香の祭壇、
31:9 燔祭の祭壇とそのもろもろの器、洗盤とその台、
31:10 編物の服、すなわち祭司の務をするための祭司アロンの聖なる服、およびその子たちの服、
31:11 注ぎ油、聖所のための香ばしい香などを、すべてわたしがあなたに命じたように造らせるであろう」。

このように、主は人に知恵を与え、匠の技を与え、指導力や金銀や、その他必要なものを全て備える。
その特別な知恵が与えられた人には、「これをつくって欲しい」と言われた時、頭の中で「これとこれが必要だ」「ここにはこの材料を使おう」「ここはこのように組み立てよう」と、瞬時にイメージが組み上がり、そして精巧に動かす手が与えられるのだ。
その理由は、共にキリストのからだを建て上げるためであり、まさに、主が特別な油注ぎを与える故である。
ちょうど、ベザレルとアホリアブに、主を礼拝する所、幕屋建造のために知恵と啓示の霊を与えられたように。

「聖別」には、二つの意味がある。
一つは「委任する」、すなわち、主が、あなたには、これこれの事をする者として任命した、という事である。
主からの任命があるなら、知恵と力とわざが泉のように湧き上がり、疲れない。しかし、油注ぎもないのに、また任命もないのに、その仕事に勝手なあこがれをもって、しようとすると、何も思い浮かばず、また力も沸かない、ただ苦痛な日々を送るしかない。
逆に、任命が与えられたのにそれをしないとするのも、同じくただ苦痛な日々を送るしかない。

「聖別」の意味の 二つ目は、「聖とする」である。
聖別とは、簡単に言えば「分離」であり、けがれた者からきよい者へ、悪どい者から良い者へ、俗なる者から聖なる者へ、主から遠かった者が、主に近い方向性で、どんどん分離して行くのだ。

これら、「委任」と「聖とする」が合わさって、「職分」が与えられるのだ。
ちょうど、大祭司アロンに職分が与えられたように。

1コリント12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

エペソ4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

大祭司アロンには、特別に「聖」とされたしるしが与えられた。
出エジプト記28:36 あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、
28:37 これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。
28:38 これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。

主が、特別に任命されたからには、自らを聖とするのが、主に呼び出された者の分であり、もし、牧会者が「聖」という立ち位置に立っているなら、聖徒は祝福される。
「神よ、この病人に手を置けば癒やされますように」という事を願うよりも、むしろ「わたしが聖化されたものである」という事を追求するべきなのだ。

神が用いられる器は、聖潔。きよい器でなければ、聖霊は働かない。
たとえ過去どんな罪を犯していても、現在、「今、あなたは聖を歩んでいますか??」という志の内に歩む事が重要だ。
今、聖である歩みを、実行していかなくてはいけない。今を大事に生きる人にこそ、主が働くからだ。
罪は、悔い改め、常習犯的な罪を、今、やめる、それを続けて行く事の繰り返しである。

祭司がきよければ、その祈りは聞かれる。だから、きよくなるために、たゆまず努力する。それが、聖霊充満の秘訣である

ジェホバ・ニシ:主はわが旗 (詩篇23:4)
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 聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデが作った詩篇23篇には代表的な主の8つの御名のご性質が練り込められている。今回は詩篇23:4に込められた御名「ジェホバ・ニシ」について見たい。なお、主の御名「ジェホバ」を「アドナイ」「ヤーウェ」と訳す事もあるが、いずれも同じ意味である。

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(詩篇23:4)
この言葉は、主の御名「ジェホバ・ニシ(Jehovah Nissi:主はわが旗)」のご性質が現れている。ジェホバ・ニシという主の御名が登場するのは、出エジプト記17:15である。そこは、イスラエルが奴隷の国エジプトを脱出した直後、主から示された約束の地・カナンへ移動する途中、アマレクが襲いかかってきた時である。
アマレクは、イスラエルの中で行軍に疲れ、弱って後方にいた人達を狙いうちにして、襲ってきた。彼らの性質を一言で言うなら、「弱い者いじめ」である。主はそのような者は、断ち切られる。(申命記25:17-19)
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。
わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
モーセが丘の上で手をあげたのは、背後で祈り、実戦部隊として戦うヨシュア達を祝福するためである。
私達の戦う武器は、鉄でできたものではなく「霊による剣、すなわち御言葉」であり、その手段は、肉弾戦ではなく「祈り」である事が、エペソ6章に記されている。モーセは、祈りの重要性をよく認識していたのだ。
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11) 背後で祝福の手を上げて祈るその手が、戦いを左右した。祝福の手を挙げる事は、どれほど重要だろう。
アロンとフルはその重要性に気づき、石を取ってモーセが座れるようにし、さらに二人は両脇からモーセの手を支えたので、彼の手は日没までしっかり挙げられたままだった。ヨシュアはアマレクの軍を打ち敗った。
ヨシュアは丘の上で手を上げているモーセを背後に、安心して戦う事が出来ただろう。後にヨシュアが指導者になった時、彼はアイの町を攻撃する際に、ずっと槍をその町に向かって上げ、イスラエルが勝利するまで手を引っ込めなかった(ヨシュ8:26)。また彼は、祈りによって太陽と月を一日停めてしまった。(10:12)
このように、モーセ、アロン、フル、ヨシュア、それぞれに役割があったように、教会の牧会の現場も、手を上げて祈る人、祈りに専念できるように支える人、実戦部隊として戦う人、それぞれ役割があるのだ。

『主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。』
ここに「主はわが旗(ジェホバ・ニシ)」という主の御名が出てきた。それは『主の御座の上の手』のことであると書いてある。つまり私達が手を上げて祈る時、その手が主の旗となり、そこに神の国の影響が、神の統治が、その場所に及ぶようになる、という事なのだ。手を上げて祈る事が、いかに大事だろう。
戦いに勝利した時や、未開の土地に初めて踏み入れた時など、そこに、自分たちの旗を立てて、「ここは自分たちのもの、自分達の統治が及ぶ所」、と内外に宣言するように、祈りの手を挙げる事も、そうである。
自分の子供や家族のために、会社のために祈る時、あるいは、邪悪な領域に足を踏み入れて伝道する時に、祈りの手を挙げるのである。そうする事で、そこに神の国の統治権を呼び起こす事が出来るのだ。
ただし、手を挙げれば誰でも祈りが聞かれるわけではない。祈る手は、神に従う「きよい手」でなくてはならない。『ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』(1テモテ2:8) 『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』(ヤコブ4:8)
主こそ、羊飼いである。私達が死の陰の谷を歩く事があっても、主のむちとつえが導くなら、恐れる事は無い。あの方は私達を宴の席へと伴われ、私達の上に翻るあの方の旗じるしは、愛だから。(雅歌2:4)
モーセやヨシュアのように、指導する立場にある人は、きよい手を挙げて祈る事が大事であり、祈る立場の人が煩いなく祈りに専念できるように、助ける人も重要であり、もちろん実際に働く人も大事である。このように、それぞれの役割を果たし、主の愛の旗印の下で勝利の歩みをして行く皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。(1サムエル記30:1-20)
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主の祈りをしたヒゼキヤ - 人任せの信仰から直接主に向かう信仰へ(2列王記19:1-19)
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19:1 ヒゼキヤ王はこれを聞いて、衣を裂き、荒布を身にまとって主に宮に入り、
19:2 宮内卿エリアキムと書記官セブナおよび祭司のうちの年長者たちに荒布をまとわせて、アモツの子預言者イザヤのもとにつかわした。

アッシリヤの圧倒的な力と暴力を前に、そして主をののしるかのような言葉に主の宮に入った。
衣を裂くのは、痛みや悲しみを表現する行為であり、粗布をまとうのは、主の御前にへりくだる姿勢である。
しかし彼自身が、主の宮で、何かをした、という記録はなく、そのまますぐに、高官達を預言者の元に遣わした。

19:3 彼らはイザヤに言った、「ヒゼキヤはこう申されます、『きょうは悩みと、懲らしめと、はずかしめの日です。胎児がまさに生れようとして、これを産み出す力がないのです。
19:4 あなたの神、主はラブシャケがその主君アッスリヤの王につかわされて、生ける神をそしったもろもろの言葉を聞かれたかもしれません。そしてあなたの神、主はその聞いた言葉をとがめられるかもしれません。それゆえ、この残っている者のために祈をささげてください』」。

彼は預言者イザヤに、「あなたの神、主は」「聞かれたかもしれません。」「祈をささげてください」と預言者に伝えている。
「わたしの神、主は」「聞かれました」「祈りに入ります」とは言っていない。
その所から、彼はこの時、問題を預言者や信仰の偉大な人に頼って祈ってもらう信仰で、自分から進んで信仰告白したり、直接自分が神の前に訴える力が萎えてしまっている事がわかる。

自分から進んで御前で祈り、問題をそのままぶつけに行く人は独り立ちした信仰者だが、圧倒的な現実的問題を前に心がしなえてしまう時、いかに信仰に歩んで来た人であっても、一人では立てなくなってしまうものである。
そのような時、彼のように、より信仰が偉大な人に祈りを要請する事も大事である。

19:5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、
19:6 イザヤは彼らに言った、「あなたがたの主君にこう言いなさい、『主はこう仰せられる、アッスリヤの王の家来たちが、わたしをそしった言葉を聞いて恐れるには及ばない。
19:7 見よ、わたしは一つの霊を彼らのうちに送って、一つのうわさを聞かせ、彼を自分の国へ帰らせて、自分の国でつるぎに倒れさせるであろう』」。

人に、ある霊が入る時、強烈な影響を受ける。
夜、眠れない時、ある物事が強烈に気になって、起きだして、夜なのに不要な行動をしてしまったという事は無いだろうか。
その時は、自分の主イエス・キリストの御名によって、その霊を叱りつけるのだ。
イザヤは、恐れるに足りない、と言った。彼らに一つの霊を送り、あるうわさ話を聞かせ、それによって彼らの心を強烈に縛り、自分の国に帰らせるようにする、と、主の言葉を届けた。
実際にその言葉の通りの事が起きる。

19:8 ラブシャケは引き返して、アッスリヤの王がリブナを攻めているところへ行った。彼が王のラキシを去ったことを聞いたからである。
19:9 この時アッスリヤの王はエチオピヤの王テルハカについて、「彼はあなたと戦うために出てきた」と人々がいうのを聞いたので、再び使者をヒゼキヤにつかわして言った、
19:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう言いなさい、『あなたは、エルサレムはアッスリヤの王の手に陥ることはない、と言うあなたの信頼する神に欺かれてはならない。

「あなたの信頼する神に欺かれてはならない。」、実に、真理に真っ向から反対する言葉である。
神は果たして、欺くお方だろうか。誘惑するお方だろうか。

ヤコブ1:13 だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
1:14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。

悪魔サタンは、神を貶め、神に信頼させないようにするが、その時こそ、御言葉を宣言して、逆にその者を御言葉の剣へと渡すのである。

19:11 あなたはアッスリヤの王たちがもろもろの国々にした事、彼らを全く滅ぼした事を聞いている。どうしてあなたが救われることができようか。
19:12 わたしの父たちはゴザン、ハラン、レゼフ、およびテラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々は彼らを救ったか。
19:13 ハマテの王、アルパデの王、セパルワイムの町の王、ヘナの王およびイワの王はどこにいるのか』」。

アッシリヤの王は、自分はあれをした、これをした、と、現実的にして来た実績をひけらかし、自分はいかなる王達も、国々も、神々も、踏み潰して来た、と豪語している。
彼らは、神をののしったのだ。
そうなれば、もはや人と人との戦いではなく、神をののしった人と、神との戦いにそのまま持っていけば、あとは神が全てをして下さる。
ヒゼキヤは、それをそのまま主に持って行った。

19:14 ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、
19:15 そしてヒゼキヤは主の前に祈って言った、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。

先にヒゼキヤは、預言者イザヤという信仰の優れた人に祈ってもらうよう頼んだが、今度は他の誰かに頼らず、自ら主の宮に問題を持って行って、自ら祈った。
彼は先に、預言者に「あなたの神、主は」「聞かれたかもしれません。」「祈をささげてください」と言ったが、今度は彼は自分から、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主」「あなたは天と地を造られました。」と言って、主の全能性を告白した。
なんと凛々しい信仰となった事だろう。

19:16 主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてごらんください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉をお聞きください。
私達も、目の前の現実的な問題を、直接、主の前に持って行って、告白すべきである。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてごらんください、と。
その人が、他の誰かにでもなく、直接主と向き合う時、直接主が動いて下さる。

19:17 主よ、まことにアッスリヤの王たちはもろもろの民とその国々を滅ぼし、
19:18 またその神々を火に投げ入れました。それらは神ではなく、人の手の作ったもので、木や石だから滅ぼされたのです。
19:19 われわれの神、主よ、どうぞ、今われわれを彼の手から救い出してください。そうすれば地の国々は皆、主であるあなただけが神でいらせられることを知るようになるでしょう」。

ヒゼキヤは直接、主がいかなるお方であるかを告白し、主をたたえ、主の支配を求めた。その後に、自分の願いを主に求め、救い出して下さいと求め、そして最後に、全ての国々は主のものである、と告白した。
これは主の祈りの内容と全く同じ順番であり、これこそ、正しい祈りの順番である。

かつてはヒゼキヤが預言者イザヤに祈りを要請したが、今度は逆に、主が預言者イザヤを動かして、ヒゼキヤの元に遣わして言葉を伝えて下さる。
主に直接向かう時、主が預言者や信仰の先輩を動かして、その人を助けて下さるのだ。

詩篇91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。

結局、主の前に直接進み出る人をこそ、主は直接助けて下さるのだ。

目をさましていなさい(マタイ24:40-51)
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ルカによる福音書 講解説教メッセージ
権威を身に帯びる方法(ルカ4:31-44)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
「私は枯れ木だ」と言ってはならない(イザヤ56章)
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悪がはびこる時の聖徒の在り方(2列王記18:26-37)
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ヒゼキヤの時代、アッシリヤは神の民の敵として、圧倒的な力や武器をちらつかせ、神の民をそそのかしに来た。
この出来事は、聖書の3箇所から、すなわち、この列王記と、歴代誌と、イザヤ書の3つの視点で書き記されている。
それは、異例な事である。なぜ聖書は、そこまで繰り返しこのヒゼキヤの時代の出来事を記して来たのか。
ヘブライ思考において、ハカダされている(繰り返されている)という事は、重要な事だからしっかり心に留めなさい、という事である。
強大な悪がはびこり、神の民を苦しめる。
それは終わりの時代においても、いや、私達の日常生活において起こりうる事であるが、いかにしてそれを乗り切るか、その秘訣が、このヒゼキヤ対アッシリヤの記述に記されているのだ。

18:26 その時ヒルキヤの子エリアキムおよびセブナとヨアはラブシャケに言った、「どうぞ、アラム語でしもべどもに話してください。わたしたちは、それがわかるからです。城壁の上にいる民の聞いているところで、わたしたちにユダヤの言葉で話さないでください」。
18:27 しかしラブシャケは彼らに言った、「わたしの主君は、あなたの主君とあなたにだけでなく、城壁の上に座している人々にも、この言葉を告げるためにわたしをつかわしたのではないか。彼らも、あなたがたと共に自分の糞尿を食い飲みするに至るであろう」。

敵は、自分たちにわかりやすい言葉で語りかけて来る。
それは、暴力的な脅し文句であり、また汚らわしい言葉である。
彼らはなぜ、アラム語ではなく、ユダの言葉で語って来たか。それは、城壁を守る者達を恐れを掻き立てるためであり、城壁を守る者が、主君であるヒゼキヤに対する信頼を無くさせるためである。

18:28 そしてラブシャケは立ちあがり、ユダヤの言葉で大声に呼ばわって言った。「大王、アッスリヤの王の言葉を聞け。
18:29 王はこう仰せられる、『あなたがたはヒゼキヤに欺かれてはならない。彼はあなたがたをわたしの手から救いだすことはできない。
18:30 ヒゼキヤが「主は必ずわれわれを救い出される。この町はアッスリヤ王の手に陥ることはない」と言っても、あなたがたは主を頼みとしてはならない』。

神の民に敵対する者達の本音は、彼らが主に寄り頼む事を止めさせたい、という所に尽きる。
ヒゼキヤは人々に、主に寄り頼み、主に信頼するように伝えて来て、また行動して来た。
しかし、その信仰の志をくじかせてくる。口先で主に依り頼むと言って何になるのか、現実的に力自分たちの力はこんなにすごいのだぞ、と。
そして、さんざん力を見せつけ、脅した後は、甘い言葉で畳み掛けてくる。

18:31 あなたがたはヒゼキヤの言葉を聞いてはならない。アッスリヤの王はこう仰せられる、『あなたがたはわたしと和解して、わたしに降服せよ。そうすればあなたがたはおのおの自分のぶどうの実を食べ、おのおの自分のいちじくの実を食べ、おのおの自分の井戸の水を飲むことができるであろう。
18:32 やがてわたしが来て、あなたがたを一つの国へ連れて行く。それはあなたがたの国のように穀物とぶどう酒のある地、パンとぶどう畑のある地、オリブの木と蜜のある地である。あなたがたは生きながらえることができ、死ぬことはない。ヒゼキヤが「主はわれわれを救われる」と言って、あなたがたを惑わしても彼に聞いてはならない。

暴力的な言葉でさんざん脅し、また暴力を振るわれた後に、甘い言葉でささやきかけてくる。それでころっと騙されてしまう人は多い。
DVの被害に遭っている人が、なかなか警察に通報しないのは、この、暴力の後の甘い言葉に一抹の望みをかけてしまうからだ。

18:33 諸国民の神々のうち、どの神がその国をアッスリヤの王の手から救ったか。
18:34 ハマテやアルパデの神々はどこにいるのか。セパルワイム、ヘナおよびイワの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤをわたしの手から救い出したか。
18:35 国々のすべての神々のうち、その国をわたしの手から救い出した者があったか。主がどうしてエルサレムをわたしの手から救い出すことができよう』」。

サマリヤ、そこは北イスラエル王国の首都だった所である。
ようするに、北イスラエル王国は最後、主により頼まずに、この、セパルワイム、ヘナおよびイワの神々により頼んでいた、という事だ。
神の民が、神である主を捨てて、異邦の神々により頼む。それでは、負けて当然である。
しかしアッシリヤは、あたかも自分たちがその神々に勝った、と豪語している。

18:36 しかし民は黙して、ひと言も彼に答えなかった。王が命じて「彼に答えてはならない」と言っておいたからである。

敵の脅しや甘い言葉に対して、何も答えるな、それは最善策である。
焦ったり、恐れたり、混乱している時、口から発する言葉や決定してしまう事は、ほぼ、物事をもっと悪くしてしまうからだ。

なぜ、敵がこのようにはびこるのだろうか。それは、主の許しの元である。
黙示録13:5 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。
13:6 そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。
13:7 そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。

神はなぜ、邪悪で汚れた敵がはびこる事を許されるのか。
それは計り知る事はできないが、すくなくとも、敵がはびこっている間、聖徒達には、忍耐と、主への信仰の貫きとを、世に対し、人やサタンに対し、そして、神に対して示す機会となっている事は、否みようがない事実である。
だから、敵がはびこっている時こそ、聖徒達は主に向かい、助けをもとめ、ますます主に近づく必要がある。
黙示録13:10 とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。

ヒゼキヤはこの事によってますます主に向かい、主に助けていただき、最終的に彼は有名になって、主の栄光が轟き渡る事となる。
全ての事は主の栄光のため、そして義人と悪人がふるい分けられるためである。
このように悪がはびこっている時、聖徒達がいかにして乗り越えるべきか、その秘訣が、詩篇37篇に記されている。

詩篇37:1 ダビデの歌 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。
37:3 主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
37:4 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
37:6 あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

主に信頼して善を行う事、主を喜びとする事、道を主にゆだねる事、それが、悪人が栄えている時に為すべき時である。
そうすれば、その者共は草のように衰え、青草のようにしおれる。
そして主は、その人の正しい事を真昼のように明らかにされる。

37:7 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
37:8 怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。
37:9 悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。
37:10 悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。
37:11 しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。

書いてあった。柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる、と。
主に信頼する柔和な者は、豊かな繁栄を楽しむ事が出来るのだ。
この終わりの時代、悪がはびこっている時代、この時こそ聖徒達はますます聖なるものとされていくべきである。

黙示録22:11 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
22:12 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。

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